オブジェクトと寄物陳志
──ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について』、グレアム・ハーマン『四方対象』ほか

清水高志(哲学)

思想、哲学の分野で、僕にとって今年(2017)に起こった忘れがたい出来事は、ブリュノ・ラトゥールの著作が続々と翻訳され始めたこと、そしてグレアム・ハーマンの『四方対象──オブジェクト指向存在論入門』(人文書院)が日本語で読めるようになったことである。ちなみに僕自身が8月に発表した『実在への殺到』(水声社)でも、ハーマン論に2つの章が割かれており、第1章からラトゥールについて論じられている。だからというわけではないが、彼ら2人の間に立って諸問題を思考することは、思想や芸術の今世紀の世界的な潮流を視野に収めるためにも、今日とりわけ重要であると思うのだ。

来年はさらに、ハーマンについては『ゲリラ形而上学』が、ラトゥールについては『社会的なものを組みなおす』の翻訳が刊行される見通しだが、雑誌で論文が断片的に紹介される段階から、多くの日本語での読者を獲得する状況を経て、ラトゥールの仕事が人文学のさまざまな分野で、本格的に導入される日ももはや遠くないだろう。──先日『Art Review』誌の「今年のPower 100」で、ラトゥールが9位に初登場したことは記憶に新しいが、ポストモダンとは異なるアプローチで、(ポストモダンも含めた)これまでの近代文明に深い疑義が投げかけられている今日から見ると、こうした流れを決定づけたもっともプロミネントな存在が、まさに彼なのである。アートや建築といった分野でも、今後はその影響がますます現われてくることは間違いない。

ブリュノ・ラトゥール
『近代の〈物神事実〉崇拝について
──ならびに「聖像衝突」』
(荒金直人訳、以文社、2017)

まず、9月に刊行されたこのラトゥールの『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』(荒金直人訳、以文社、2017)を紹介することにしよう。この本は、「製作者がみずからが作ったものに操られる」という奇妙な精神の病、物神崇拝(フェティシズム)と呼ばれる事象をめぐって、近代的主体とその自由、科学者の営為、キリスト教と偶像崇拝の関係など、多くの根本的な問題に照明があてられた問題作である。直接フランス語から翻訳されているのも重要であり、これまでの重訳よりもラトゥール自身の筆致や、ニュアンスがよりリアルに伝わってくる。

そもそも物神崇拝(フェティシズム)とは、自分が創作した女神に恋するピュグマリオン、空想の産物を信じ込む子供といったものと同じように、いわゆる未開の人々が自分でつくった物神(フェティッシュ)を信仰しているとして、一神教を奉じるポルトガル人らが彼らを批判して呼んだ言葉である。Feitiçoというこの語の語源は、「製作する、魅惑される」という二種類の意味を持つが、アフリカ大陸の西海岸にやってきたポルトガル人からすると、この二つの語義ほど同時に成立しそうにないものはない。だから近代人の眼には彼らの信仰は、矛盾した、自作自演としか言いようのない、スキャンダラスなものと映るのだ。

物神崇拝の糾弾者たちは、それゆえ彼らを相手に徹底的な批判を繰り広げる。もっともそれを眺めるラトゥールの眼は懐疑的だ──「永遠に偶像を排除した世界の中で、〔彼らは〕ついに自分自身の支配者になるだろう」と彼は語る★1。そして、このようにして生まれる《自由な》近代的主体すら、本当は自立した出発点にはなりえないことが、本書ではいみじくも暴かれてしまうのだ。

実際のところ、「誤って物神に帰されていた力を、誰に戻すべきなのか決して分からない」と彼は述べる★2。厳密に言って、「自己自身の支配者であり万物の支配者」であるような個人といったものは、仮構であるにすぎない。物神の幻想が消滅したからといって、彼はたったひとりではなく、そもそも「自らの存在を多数の作用者(アクター)たちと共有している」ことに変わりはないのだ。「一つの団体、一つの集団、一つの群衆」は、たしかに個人たちによってつくられるものだが、個人を超え、それを従属させるものでもある。近代人にとっての客観性は、「多数の作用者(アクター)」の関与のもとで成立しており、物神崇拝者と同じようにそこでは、「誰が行動し誰が行為の起源を見誤っているのか」が、まったく明らかではないのだ。

近代人は、物神崇拝者たちが《魔力を持つ対象》を信仰していると批判し、自分たちは《事実としての対象》を持っていると主張する。──しかしこの《事実としての対象》も、そもそも、そうした「多数の作用者(アクター)」の作用を媒介するものとしてしか、成立していない。《多数性》というファクターが導入されることによって、近代人が信奉する《事実としての対象》は、物神とまったく同じものとして機能していることが明らかになる。近代人は、ミシェル・セール風に言うなら、準 - 客体を媒介にした準 - 主体としてしか作用しえていない。こうした準 - 主体はまた、たとえば知の《理論》を、みずから純化し一般化しようとするたびに、却ってとめどもなく他の準 - 主体を増殖させてしまうとラトゥールは語る。ここでも《多数性》が執拗につきまとう。近代科学によって生まれる《物神事実》の分析の詳細は、ぜひ本書を直接お読みいただきたいが、これら準 - 主体の側に、あくまでも寄り添うかたちでANT(アクターネットワーク論)が展開されているのが、この書物の大きな特色である。

グレアム・ハーマン『四方対象
──オブジェクト指向存在論入門』
(岡嶋隆佑監訳、人文書院、2017)

同じ時期に翻訳が出たグレアム・ハーマンの『四方対象──オブジェクト指向存在論入門』(岡嶋隆佑監訳、山下智弘+鈴木優花+石井雅巳訳、人文書院、2017)も、また驚くべき書物である。オブジェクト指向哲学の骨格を示すために、原著がわずか6週間で書かれたという逸話を持つこの本は、しかしきわめて明瞭で、射程の広い書物だ。またそこで展開されている議論には、後で見るようにやはり先のラトゥールの問題意識と響き合うものがある。この本の前半部では特に、フッサール、ハイデガーの思想を足掛かりとしながら、彼がみずからの理論をどのように確立していったのかが語られているが、むしろそこで際立っているのは、過去の哲学全体を批判しつつ語られる、彼の数々の特異な問題意識である。

たとえば下方解体(undermine、邦訳では「解体」)と上方解体(overmine、邦訳では「埋却」)という概念がある。これらは、先行するさまざまな哲学を批判するためにハーマンが編み出した概念のうちの代表的なものだ。そのうち前者は、この世界がなんらかの根本要素から構成されていると見る考え方で、一見自立的であるような対象も、じつはより本質的な部分によってつくられているとする立場である。これに対し、後者は対象を、それが置かれている諸関係の文脈のなかにある限りで意味を持つものと捉えるものだ。こちらは、全体的で外的な関係に原因を還元する立場である。

対象は当然ながらいずれの立場においても、世界を捉える出発点にはなっていない。関係に還元されるか、部分に還元されるかである。ともあれ、ハーマンにとってそれが真に問題なのは、このときそれらの立場のどちらかに対象が置かれることが、固定的に考えらえているということである。むしろ、そうした位置は状況によって、入れ替わりうるはずなのだ。他の対象との関係においてある対象(これはハーマンの語る感覚的対象である)を認めるなら、対象そのものから始めるためには、そうした関係から離れてある(退隠、脱去した)対象(実在的対象)をも認めねばならない。「対象とは、それが置かれたより広い文脈からも、またそれ自身の部分からも独立した、統一的実在性を有する全てのもののことである」とハーマンは言う。下方解体、上方解体の双方からのこの「ズレ」は、いかにして確保されるのか。それらの両ベクトルを、二重化し、入れ子にすることによってである。

僕が木を知覚するとき、僕にとっての木、木にとっての僕は外的な関係、上方解体的な関係である。すなわち、それらは互いに感覚的対象としてある。しかし、僕や木をこうした関係の部分と見做すとき、それらは(この関係という)第三の実在的対象を下方解体的に見た場合の構成素となる。またそうでありながら、なおも僕は木から脱去(退隠)した実在的対象でもあるという、二重のステイタスを持っている。──(内に含まれつつ、外に脱去しているという)このズレこそが、実際に僕を対象(さらには実在的対象)にするのだ。さらに言えば、この(関係という)第三の実在的対象も、さらに外的な関係、上方解体的な関係に対して開かれているのでなければならない。

このような、いわば関係と項が相互に入れ子になる構造において、主体と客体の役割が二重化し、互いに次々と可換的に機能するというのが、ハーマンの世界観である。前述のラトゥールをハーマンは、上方解体的であるとしばしば非難するが、たとえば『物神事実』において彼が展開した議論は、もろもろの準 - 主体(理論をつくりだす者)という、いわばのうちに、やがて増殖していかざるをえない別の項との関係を、すでに読み取ったものであった。(理論の有効性を語る際限ない言説は、「絶えず中断し絶えず移動する」と彼は語る)★3。そこではアクター(項)がすでにネットワーク(関係)であり、ネットワーク(関係)こそがまた、アクター(項)であったのである。

両者の発想を特徴づけるのは、主体と対象、項と関係といった対立二項のうちで、いわゆる排中律が成立しない状況を、ただ事後的に両者の境界が曖昧になるという仕方(これは、ポスト構造主義がしきりにやったことである)ではなく、即時の二重性においてつくりだすということである。それによってつくられるのが、真の実在的対象なのだ。対象がいかにして生まれ、独立した存在となるのか、さらにはそれが、人を魅了しさえするのかを考える手掛かりが、ハーマンのうちにもやはりあると言えるだろう。

松岡正剛+ドミニク・チェン
『謎床──思考が発酵する編集術』
(晶文社、2017)

最後に、毛色の少し違う今年の和書についても言及しておこう。このところの松岡正剛の仕事は、僕にとっていずれも大変興味深いものだが、ドミニク・チェンとの対談である『謎床──思考が発酵する編集術』(晶文社、2017)を、あえてここでは挙げておきたい。──この書物には多くのヒントが隠されているように思われるからだ。ここで松岡は、「日本人はかつて花鳥風月や雪月花を全面的に鑑賞していなかった」という意味深な言葉を残している。「桜の一枝を手折って、部分だけ持ってきて部屋の中で見る。月も月そのものを見るのでなく、水盤に投影してそれを見る。雪も盆景にして、少し持って楽しむ」のが流儀だったというのだ。そのあとやや唐突に、彼はこんな話題を振るのである。

かつてsmalltalkとオブジェクト指向に注目していたことがあります。そこでは、「3+2=5」ではなくて、「3」と「+5」、「=8」というように、オブジェクトをそれぞれ分けますよね。つまり、くっついているとか、重なっているとか、かかっているという、その「状態」をオブジェクトと呼んでいましたね。これが私の感じた「オブジェクト指向」になるのですが、同様に日本の万葉文化以来の寄物陳思メソッドというのは、寄せ集めて思いを述べることと、ドラッギングしている状態と、そのことについて何かを言っていることがズレながらも同じである、一緒なんであるということなんですね。つまり方法ごとがコンテンツである。感知するための手続きごとがコンテンツである、というふうになっているわけです★4

水盤に投影して月を眺めるような、「感知のための手続きごと」。またそこに生まれる、「くっついている」「重なっている」などの「関係」が、すでにオブジェクトでもあるという感覚──それこそが私たちに馴染み深い、懐かしい美学なのだと松岡は語る。「関係」とその多重化が、そのままオブジェクトでもあるという先のハーマンの思想が、造形的かつ審美的に展開されるとしたら、まさにこんな風になるだろうというヒントが、ここにはある。無論、これほど伝統的なものである必要はないが、極めがたいヴァリエーションとともに、このような方法がさまざまにありえることは、おそらく間違いのないことなのだ。



★1──ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について──ならびに「聖像衝突」』(荒金直人訳、以文社、2017)34頁。
★2──同、34頁。
★3──同、74頁。
★4──松岡正剛+ドミニク・チェン『謎床──思考が発酵する編集術』(晶文社、2017)117頁。


清水高志(しみず・たかし)
1967年生まれ。哲学。東洋大学総合情報学科准教授。主な著作=『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』(冬弓舎、2004)、『来るべき思想史 情報/モナド/人文知』(冬弓舎、2004)、『ミシェル・セール──普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社、2013)、『実在への殺到』(水声社、2017)。翻訳(共訳)=『アトラス』(ミシェル・セール、法政大学出版局、2004)、『ライプニッツ著作集 第二期 哲学書簡』(工作舎、2015)、『ポストメディア人類学に向けて 集合的知性』(ピエール・レヴィ、水声社、2015)など。


201801

特集 ブック・レビュー 2018


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器と料理の本──鹿児島睦『鹿児島睦の器の本』ほか
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