「参加型アート」「アール・ブリュット」──コミュニケーションのためのアートと、これからの美術館のかたち

山崎亮(コミュニティデザイナー)+保坂健二朗(東京国立近代美術館学芸員)

まちづくり・福祉分野と美術館・教育分野での「ワークショップ」

保坂──もう一つ、参加型アートとアール・ブリュットをつなぐものとして、ワークショップの存在が挙げられます。美術界においてワークショップが頻繁に行なわれるようになっていますが、どうしても美術館主体で行なうワークショップはアーティストと参加者という構図が強くて、結果として、たとえ和やかな雰囲気であっても、事実上はトップダウン型になってしまいがちでした。アーティストが参加者に、やり方を指導しながら制作が行なわれるような方法であるわけですから。それに対して《みずのき美術館》で行なわれていたワークショップでは、福祉で行なっているワークショップの手法を取り入れているからか、アーティストがいたとしても、それとは別に、健常者が絵を描いている横で障がい者が絵を描いていて、そこで別の気づきが生まれるというような、これまでの美術館がおよそ提供し得なかった状況を生むことに成功している。トップダウンではなく、参加者全員をゆるく包容するような雰囲気が生まれている。今、日本が、あるいは世界が目指そうとしているインクルーシヴな社会が、小さなかたちであれ生まれているとも言える。美術館で。あるいはアートを通して。ここに僕は可能性を感じています。

山崎──ワークショップという言葉の意味がブーメランのように回って戻ってきているような感じがしますね(笑)。というのはワークショップの原義は「工房」、つまり物を生み出す場所です。そこには師弟関係によって、親方が若い職人を育てていく環境がありました。ですから一次的な意味は、卓越した技術を持つ人が教えながら、協力して物をつくるところにあります[fig.6左]。しかし時代が下って現在のワークショップは、ものをつくるという目的で集まるわけではなく、いろんな人がテーブルを囲んで多様な意見を出し合うことで、かたちにならない何かを生み出していくという言葉に変化してきています[fig.6中]。このワークショップの場は、だれがどんなことを言ってもいいし、正解はない。みんながそれぞれ出した話を聞いて、「良いことを学んだ」と思ってもらえるような場であればいいんです。福祉が行なっているワークショップは、後者の手法です。社会教育事業ではないので、それぞれが何かを感じ取って持ち帰ってくれればいいよ、というスタンスなんですね。だから、健常者が隣で描いている障がい者の絵を見て何を得るか、得ないか、それはどちらでもよいのです。「みんなでできたね」というある種のゆるさがあります。ところが、美術館で行なわれているワークショプの多くは、最終的に物を生み出すことが多く、先祖返り的に工房に近い形式をとっているのではないでしょうか[fig.6右]。アーティストと参加者との関係は、かつてのマイスターと職人の関係に意図せずなっている。中世の工房で行なわれていたWork Shopを取り入れたわけではないと思いますが(笑)、教育事業的な側面を持っているために、ブーメランのように原義に近づいている。この関係はおもしろいですね。
社会教育系のワークショップやダイアローグカフェは、答えが決まっているわけでもなく、なにか形にする目的があるわけでもないので後者ですね。相互の学びなどを目的として行なうんですが、実はデザインやものづくりに身をおいていた人間としては、そうしたワークショップのあり方には「みんなそれぞれに気づきがあっていいよね」だけで終わっていいのか、という物足りなさを感じるときも少なくありません。だから私たちは、ワークショップを原義的なかたちに戻すまではいかずとも、そこで得た気づきを計画論に乗せるところまで、必ず結論に落とし込めるまで行ないたいと考えています。それは、コミュニティデザイナーになったときから意識していることです。ラーニングバーやダイアローグカフェという場を設けて、参加者に気づきを持ち帰ってもらうだけでは、総合計画をつくることはできません。ワークショップで出た、私たちが考えもしなかった意見をまとめて結論へ結びつけていくという作業を行なっています。

fig.6

保坂──結果が残りづらいという指摘は、参加型アートにもできますね。

山崎──そうですね。そうした時に、参加しなかった人にも良いと思ってもらえる作品、計画をつくっていくことが必要ですよね。
瀬戸内芸術祭2013で、私たちstudio-Lが小豆島で行なった「小豆島町コミュニティアート・プロジェクト」では、その場所で起こる繋がり自体を作品にしたいと考えていました。あの作品は、町の人たちの数々のアイデアによってできています。作品で使用されているのは、「町で必要ないもの」をヒアリングして出てきたもので、たとえば大量に余っていた醤油を小分けするためのたれ瓶などです。そして作品の発想源となっているのは、醤油が特産である小豆島ならではの習慣で、醤油の鮮度を確認するために、光に透かして透明度を確認するという行為です。そうした作品の素材となりそうなものをみんなで持ち寄りながら、同時にアートの文脈・ルールや衝撃をあたえる方法について、勉強会を住民の人たちと行ないました。最終的には、みんなで持ち寄った古くなって濁った醤油を飽和食塩水で薄めながら異なる濃度の醤油をつくって余ったたれ瓶に入れ、後ろから光を当てて展示することになりました。大量のたれ瓶に醤油を詰めていく作業は、町の老人ホームの方や小学生などいろいろな人に協力してもらいました。たれ瓶は空気圧を調整するために完全な密封状態にはならないので、完成した作品の前に立つと、醤油のいい匂いがするんですよね(笑)。
でも私が一番作りたかったのは作品自体ではなく、それを作り上げる人々のつながりでした。作品はもう撤去されてしまいましたが、このプロジェクトをきっかけに集まった人たちが馬木醤会というコミュニティを形成しています。作品を展示した蔵でしょうゆカフェを開き、その利益でまちづくりをしようという話が出たりしました。ものを一緒に作るという経験を通して集まった人たちが、そのものはなくなっても関係が継続していくという、その場で終わることのない作品を目指したいと思っています。それがどれだけ力を持つかはわかりませんが、その場限りの関係ではなく時間軸を持ったつながりが重要です。

「小豆島町コミュニティアート・プロジェクト」 提供=studio-L

アートを揺るがすアール・ブリュット

山崎──いま話してきたような参加型アートが全国各地で行なわれるようになるのと並行して、日本に「アール・ブリュット」という言葉が広まっていったような気がします。そもそもアール・ブリュットとはどのような文脈から出てきたものなのでしょうか。

「エイブル・アート'99
このアートで元気になる」展
(東京都美術館)
保坂──90年代にも東京や日本各地で、アール・ブリュットと呼びうる作品を紹介する展覧会が単発的に行なわれてはいましたが、継続的ではありませんでしたし、横のつながりもほとんどありませんでした。アール・ブリュットと呼びうる作品が世の中にはあることが広く知られるようになるきっかけのひとつとして、1996年から7年間にわたり日本各地をキャラバン形式で巡回した「トヨタ・エイブルアート・フォーラム」があります。またその過程ではのようなかたちで、東京で「エイブル・アート'99 このアートで元気になる」展(東京都美術館、1999)が開かれました。キュレーションはそのとき兵庫県立近代美術館の学芸員だった服部正さんです。このエイブル・アート・ムーブメントによって障がい者のつくるアートが一般の人にも認知されはじめました。ちなみに、「アール・ブリュット」という美術史の用語ではなくて「エイブル・アート」といういわゆる日本語英語の造語を通してだったのが、特徴のひとつです。
もうひとつの大きな転換点は、2004年に恒常的にアール・ブリュットを展示する美術館として滋賀県の近江八幡に《ボーダレス・アートギャラリーNO-MA》が開館したことです。彼らはその後名称を《ボーダレス・アートミュージアムNO-MA》(以下、NO-MA)に変えますがこの美術館の特徴のひとつは、アール・ブリュットの作家だけではなくプロフェッショナルのアーティストによる作品も同じようにボーダレスに展示した点です。開館当初からアートの境界を崩すという目的を持っていました。

《NO-MA》外観

《NO-MA》内観「アール・ブリュット☆アート☆日本」(2014年3月)
以上2点、撮影:大西暢夫

「きのうよりワクワクしてきた」展
(国立民族学博物館)
山崎──国立民族学博物館で開かれた「きのうよりワクワクしてきた」展(2005)が、私自身のアートの概念を変えたひとつのきっかけになっています。あの展覧会は、狭義のアール・ブリュットではありませんが、アートと博物館の展示品を接続させる画期的な展覧会で、研究者が命がけで世界から集めてきた民俗的な仮面にキッチュな洋服を組み合わせたりして「こんなことしていいんだ!」という驚きとともに、特別展企画委員会の委員長だった佐藤浩司さんという面白い研究者がいることを知りました。その後、服部正さんとも知り合い、アール・ブリュットを勉強し始めましたね。

保坂──美術史におけるアール・ブリュットへの注目は、80年代ごろから現われてきたニュー・アート・ヒストリーに続くものとして位置づけられます。ニュー・アート・ヒストリーは、それ以前の権威的な、あるいは男性中心主義的な、またあるいは西洋重視の美術史に対する批判運動という性格を持っていて、具体的には、フェミニズムやポスト・コロニアリズムの観点からの研究や、美術館という装置の検証が行なわれました。そのような動きのなかで、女性や非西洋社会以外にも美術史が見落としてきたものがあると認識され始めた。それがたとえば、子供の作品や障がい者の作品、あるいはアール・ブリュットと呼ばれていた作品でした。
アール・ブリュットへの関心の高まりをニュー・アート・ヒストリーの流れの中で捉えるために、リン・クックというキュレーターについて触れておこうと思います。彼女はここ最近アール・ブリュットの展覧会を意欲的に企画しているキュレーターなんですが、もともとはアメリカを代表するDiaアートセンターのキュレーターとして有名で、90年代にはブリジット・ライリーやアグネス・マーティンといった女性の抽象画家や、ルイズ・ブルジョワといった無意識や夢など私的な世界に取り組む女性の作家をとりあげる展覧会を企画していました。女性のアーティストの作品を、Diaというアメリカの権威的でモダニズム的なコレクションのなかに加えることに尽力した人物でもあります。そのクックは、やがて、マルティン・ラミレスやジェームズ・キャッスルの個展など、いわゆるアール・ブリュットの作家の展覧会を企画するようになります。彼女の動向をみると、キュレーターにとっては、本来、アール・ブリュットとニュー・アート・ヒストリーが親和的であることを感じます。
しかし、アール・ブリュットを美術の文脈に取り入れるためには、2つの点で困難な状況があります。まず、アール・ブリュットは単純な二項対立で示すことができません。フェミニズムの場合は、男と女という二項対立がはっきりしていました。そしてたとえば既存の美術史のマッチョな考え方──強さ、厳格さ、構図の均整さ──に対峙するものとして、その対立項である弱さ、ルーズさ、不均等さといった要素を美的な価値として認めるという方法がとられました。また、人口的にみたときに、そもそも女性や非白人はマイノリティではありませんから、当事者も多かった。
それに対してアール・ブリュットはそうした二項対立に収めることが難しい。アール・ブリュットのつくり手の多くが障がい者であるのは事実なわけですが、健常者が多数を占めている社会では、その価値を認めさせることは難しい。またその価値について言うと、アール・ブリュットの作品は、反復やブリコラージュなど、既存の美術史の用語で語ることができるのです。既存の価値体系と接続しやすいために、そのまま比べられて、芸術的な価値が低いものとされてしまう可能性が高い。
困難であることのもうひとつの理由は、アール・ブリュットを取り入れることで美術史そのものが変わってしまう可能性があるということです。実際には多くのアーティストが障がい者の作り出した作品から影響を受けていたにもかかわらず、美術史は、とりわけ通史は、ほとんどつねにそれを記述の体系から排除してきました。マックス・エルンストやパウル・クレー、アンドレ・ブルトン、ジョセフ・コーネル、ゲオルグ・バゼリッツ、A・R・ペンクといったアーティストたちの多くが、精神障がい者の作ったものから大きな影響を受けたことが研究によってあきらかになっています。美術史の流れを追えば、キュビスムによって理知的になりすぎたアートに非理性の重要性を取り戻すため、シュルレアリスムが起こったとも言えるわけですが、その原動力としてアール・ブリュットが機能していた。もっとも、アール・ブリュットという言葉自体は、ジャン・デュビュッフェが1945年以降につくった概念ではありますが、ともあれ、20世紀の美術において、アール・ブリュットは、20世紀を代表する個人の作家に対して相当大きな影響をあたえていた、つまり美術史に深く関与していたのです。
しかし21世紀のアール・ブリュットは、そういう美術史的な価値観、誰誰に影響を与えたという紹介のされ方ではなく、もっと直接的に、面白いものとして、美術館で鑑賞されはじめています。個人コレクターや非営利の組織が、アール・ブリュットのコレクションを時間をかけて形成し、それをまとめて一挙に美術館に寄贈するということがそこここで起きているからです。その結果、20世紀の美術がさまざまな形でつくりあげてきた規範や価値観が揺さぶられる。美術を鑑賞する場自体を揺るがすことになっているんです。

山崎──アール・ブリュットが美術館で展示されるようになって展示方法というのは変化したのでしょうか?

保坂健二朗氏
保坂──フランスのリール市に、アラシン・コレクションという膨大な量のアール・ブリュットのコレクションを収蔵する《Lille Métropole Musée d'art modern, d'art contemporian et d'art brut》(通称《LaM》)という美術館で、2010年にフランスで初めて公立美術館におけるアール・ブリュット作品の常設展示室がオープンしました。オープニングの展覧会は、プロフェッショナルなアーティストだけでなく、アール・ブリュットはもちろん、小説家や生物学者などあらゆるジャンルの制作者の「作品」をボーダレスに取り上げた画期的なものでした。またアール・ブリュットの作品を自然光の入る明るい空間で常設するようになったのは大きな変化でしたが、「作品を鑑賞する」というあり方自体は変わっていませんね。それに対して日本の場合は、福祉施設が美術館を運営することが多いためか、既存の美術館の方法すべてを踏襲することなく、彼らなりの美術館のあり方を模索しながら運営しています。企画の大胆さもさることながら、ワークショップやカフェを上手く使っています。
こうした変化は、美術批評にも大きな影響を与えることになると思っています。さきほど少しお話しましたが、アール・ブリュットを受け入れることで、既存の二項対立構造とは違うものが入ってきます。批評や美術史で語られてきた「美的に優れている」という基準を書き換えない限りはアール・ブリュットを語ることはできません。そのためには、健常者/障がい者、プロフェッショナル/アマチュア、という区別を取り払い、人間が生み出した作品すべてを並べたうえで、もう一度価値基準を再編成することが必要です。とはいってもそれはとても難しい。なぜなら、美術作品の良し悪しの判断、美醜の判断は先天的なものではなく後天的な学習も含まれていて、小さな頃からこれが美しいものだ、あるいはこれがアートとしておもしろいものだと教えられてきた私たちは、その基準を白紙に戻して、もう一度書き換えなければならないからで、そこにはそれ相応の時間と苦労が必要になるからです。そう考えてみると、地方にできつつあるアール・ブリュットの美術館や既存の美術館で開かれるアール・ブリュットの展覧会を普通に見て育つことになる世代が今後どのように美術史を記述していくことになるのか、気になるところです。その記述がよりスムーズにおこなわれるための場を作る努力をしていくのが、自分の世代の役目だと考えています。

《LaM》 ©harry_nl


201411

特集 コミュニティ拠点と地域振興──関係性と公共性を問いなおす


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