建築の新しい自律性に向けて
長谷川豪の著作『カンバセーションズ』は、長谷川が、スイスのメンドリシオ建築アカデミーに通いながら、ヨーロッパの6組の建築家と交わした対話集である。しかし同時に、この本は、たんにインタビューを収録したものではなく、先の見えにくい状況のなかで、今を生きる建築家が何を拠り所に建築を創作するべきなのかという、実践者としての長谷川の切実な問いと、それに対する真摯な回答の記録でもある。
この本は、ある歴史認識と建築の実践の関係に関するテキストである。長谷川は冒頭で、「新しさ」を希求する人間の欲望はかけがえのないもので、価値観の固定化、画一化を相対化するためにも「新しさ」は人間社会にとって必要なものであるとしつつも、過去を否定した「ポスト」というイデオロギーに、その「新しさ」を求めることに疑念を抱き、話題を横にスライドさせ続ける近視眼的「ポスト史観」からそろそろ抜け出して、垂直方向に積み上げていく歴史観を構築していくべきなのではないかと警鐘を鳴らす。
私自身も、「今現在」が絶対化し、それが創作の根拠になっている昨今の状況を懐疑的に見ている。「今現在」に最適化された空間は、過去と切断され、未来にも生き延びられないとつねづね思ってきた。絶対化した「今現在」に創作の主題を見出すのではなく、建築の創作に時間性を召喚し、その射程を再考することで、過去を標本化せず、それを意味のあるものとして捉え直し、同時に「今現在」が持続していくものとして未来を位置づけなければならないのではないか。「今現在」=共時的で水平的な意識ではなく、過去から未来に持続する時間=通時的で垂直的な意識を、建築の創作に持ち込みたいと考えている。長谷川の言う「話題を横にスライドさせ続ける」という「ポスト史観」もまた、ある意味では共時的で水平的な意識によるものであり、「連続的で積層的な歴史観」を構築しようとする態度は、まさに通時的で垂直的な意識に基づいたスタンスであると捉えることができるだろう。
ただ、われわれは、歴史という圧倒的な時間の蓄積に触れて絶望し、畏怖することしかできないのではないか。ある一個人の発明によって、歴史に対抗することは不可能なのだ。つまり、あらゆる人為や無数の意思を謙虚に受け止めながら、その連綿とした連続性のなかから、いくつかの時間を採集し、それらを一つひとつ関係づけていくような編集行為によってのみ、創作者としての主体性が担保されるのではないか。それは、たとえば、長谷川が本書の冒頭で紹介した、メンドリシオのスタジオで製作された年表のように、さまざまな建築様式ごとに色分けされた1600枚にも及ぶ大量のカードを、それらの部分の参照関係によって組織化していくという気の遠くなるような作業である。そして、その結果として、まったく新しい年表が描かれたように、建築の創作に関しても、そのような緻密な設計によって、新しい建築の自律性を獲得できるのではないだろうか。本書のなかでペーター・メルクリが、人が芸術的な仕事に携わるときに、そこには歴史的な年代といった序列はなく、たんに興味というものがあるだけだと言っているように、きわめて主観的に歴史のなかに分け入っていって、ある感覚に従って物事を拾い上げ、その関係性を再構築していくようなプロセスを辿るのである。
本書の内容からは外れるが、最近長谷川のレクチャーを拝聴する機会があり、そこで取り上げられていた最新のプロジェクトが、このプロセスの実践としてわかりやすく重なっているので紹介したい。このプロジェクトは、台北市内の新富市場の改修計画で、1931年に建てられた馬蹄形の歴史的な建築物に対して、縄文時代の掘立柱の小屋のイメージを重ね合わせることで、新しい空間を創出しようとしている。たしかに、縄文時代の掘立柱を採用することには外部的な根拠を見出すことはできず、既存の市場の歴史性と、縄文時代の掘立柱というエレメントに内在する、まったく異質な時間性が、主観的な操作によって等価に並べられているのだ。このプロジェクトは条件が厳しく、既存の建物には一切触れられないとのことなのだが(そのために、既存の換気塔の開口を利用して柱を立てて、もともとは平屋の建物に2階の床とテントの屋根を増設している)、そのような条件の問題以上に(その柱の肌理を注意深くスタディしている様子からも、いわゆる工法的な役割のみならず、その意味性を感じざるをえない)、まったく異なる時間を並存させることで生まれる、新しい建築の自律性を構築しようとしているように見受けられる(そして、このときに注目すべきは、掘立柱が記号操作の対象ではなく、あくまでも、ある時間を表象するエレメントとして位置づけられ、それらの既存の建物との関係性に意識が向けられていることであり、狭義のポストモダンのような世界観に陥るものではけっしてない)。さらに言うと、このような態度は、この本のなかで長谷川が実践したように、世代も異なる、ヨーロッパの6組の建築家に対し、あくまでもコンテクストの外側から丁寧に質問を重ねていくことで、新しい建築の創作の根拠を浮かび上がらせようとしたことにも通じている。同時に、たとえば、日本国内でも同様の手法を取ることができるのではないかと想像させる。それは、コンテクストの内側に身を置きながら(そして、そのコンテクスト自体を十分に理解しながら)、それを同時に外側から見るような、二重の主体性によって成し遂げられるはずだ。作者の主体性は揺れ動き、相対的に時間の表象としてのエレメントが浮上する。そして、主観を投入して緻密に設計することで、翻って主体性が後退し、複数のエレメントが、価値の優劣なく併置される。このような空間は、もはや個人によって発明されたもののようには感じられず、また、クライアントやユーザーなどの特定の個人に帰属するものにもならないだろう。それは、大勢の人の目に触れ、記憶のなかで共有されていくような、人々の無意識に働きかけるものに近づいていくのではないだろうか。ここで、再び長谷川とメルクリの対話を見てみると、メルクリは、建築家が語る「建築」だけではなく、すべての人々が関わっている「建物」の文化を「建物文化」と捉え、今われわれが、どのように「建物文化」に関わることができるのかを自問している。文化とは、すべての人が関わるものであり、時間が経過するなかで、大勢の人の手が加えられ、維持されていくものである。そのような、時間的に開かれた、文化そのものとなる建築を創出させることによってのみ、「連続的で積層的な歴史観」の構築に貢献できるのではないか。
「連続的で積層的な歴史観」を建築の実践によって構築するために、歴史というものを、制御しえない無数の意思の蓄積として位置づけ、あらゆるモノを時間の表象として等価に捉えながら、それらの関係性を緻密に織り上げていくように設計すること。そして、このような設計行為によって、複数の時間を並存させること。このときに立ち現われる空間は、膨大な時間の蓄積に寄り添いながら、同時に新しい時間を断続的に紡いでいくような自律性を備えている。
長谷川豪の『カンバセーションズ』は、たんなる対話という形式を超えた、一つの文化そのものとしての建築を創作するための壮大なスタディの記録であり、そのような新しい建築の自律性に対する豊かな想像力を与えてくれるのである。
この本は、ある歴史認識と建築の実践の関係に関するテキストである。長谷川は冒頭で、「新しさ」を希求する人間の欲望はかけがえのないもので、価値観の固定化、画一化を相対化するためにも「新しさ」は人間社会にとって必要なものであるとしつつも、過去を否定した「ポスト」というイデオロギーに、その「新しさ」を求めることに疑念を抱き、話題を横にスライドさせ続ける近視眼的「ポスト史観」からそろそろ抜け出して、垂直方向に積み上げていく歴史観を構築していくべきなのではないかと警鐘を鳴らす。
私自身も、「今現在」が絶対化し、それが創作の根拠になっている昨今の状況を懐疑的に見ている。「今現在」に最適化された空間は、過去と切断され、未来にも生き延びられないとつねづね思ってきた。絶対化した「今現在」に創作の主題を見出すのではなく、建築の創作に時間性を召喚し、その射程を再考することで、過去を標本化せず、それを意味のあるものとして捉え直し、同時に「今現在」が持続していくものとして未来を位置づけなければならないのではないか。「今現在」=共時的で水平的な意識ではなく、過去から未来に持続する時間=通時的で垂直的な意識を、建築の創作に持ち込みたいと考えている。長谷川の言う「話題を横にスライドさせ続ける」という「ポスト史観」もまた、ある意味では共時的で水平的な意識によるものであり、「連続的で積層的な歴史観」を構築しようとする態度は、まさに通時的で垂直的な意識に基づいたスタンスであると捉えることができるだろう。
ただ、われわれは、歴史という圧倒的な時間の蓄積に触れて絶望し、畏怖することしかできないのではないか。ある一個人の発明によって、歴史に対抗することは不可能なのだ。つまり、あらゆる人為や無数の意思を謙虚に受け止めながら、その連綿とした連続性のなかから、いくつかの時間を採集し、それらを一つひとつ関係づけていくような編集行為によってのみ、創作者としての主体性が担保されるのではないか。それは、たとえば、長谷川が本書の冒頭で紹介した、メンドリシオのスタジオで製作された年表のように、さまざまな建築様式ごとに色分けされた1600枚にも及ぶ大量のカードを、それらの部分の参照関係によって組織化していくという気の遠くなるような作業である。そして、その結果として、まったく新しい年表が描かれたように、建築の創作に関しても、そのような緻密な設計によって、新しい建築の自律性を獲得できるのではないだろうか。本書のなかでペーター・メルクリが、人が芸術的な仕事に携わるときに、そこには歴史的な年代といった序列はなく、たんに興味というものがあるだけだと言っているように、きわめて主観的に歴史のなかに分け入っていって、ある感覚に従って物事を拾い上げ、その関係性を再構築していくようなプロセスを辿るのである。
本書の内容からは外れるが、最近長谷川のレクチャーを拝聴する機会があり、そこで取り上げられていた最新のプロジェクトが、このプロセスの実践としてわかりやすく重なっているので紹介したい。このプロジェクトは、台北市内の新富市場の改修計画で、1931年に建てられた馬蹄形の歴史的な建築物に対して、縄文時代の掘立柱の小屋のイメージを重ね合わせることで、新しい空間を創出しようとしている。たしかに、縄文時代の掘立柱を採用することには外部的な根拠を見出すことはできず、既存の市場の歴史性と、縄文時代の掘立柱というエレメントに内在する、まったく異質な時間性が、主観的な操作によって等価に並べられているのだ。このプロジェクトは条件が厳しく、既存の建物には一切触れられないとのことなのだが(そのために、既存の換気塔の開口を利用して柱を立てて、もともとは平屋の建物に2階の床とテントの屋根を増設している)、そのような条件の問題以上に(その柱の肌理を注意深くスタディしている様子からも、いわゆる工法的な役割のみならず、その意味性を感じざるをえない)、まったく異なる時間を並存させることで生まれる、新しい建築の自律性を構築しようとしているように見受けられる(そして、このときに注目すべきは、掘立柱が記号操作の対象ではなく、あくまでも、ある時間を表象するエレメントとして位置づけられ、それらの既存の建物との関係性に意識が向けられていることであり、狭義のポストモダンのような世界観に陥るものではけっしてない)。さらに言うと、このような態度は、この本のなかで長谷川が実践したように、世代も異なる、ヨーロッパの6組の建築家に対し、あくまでもコンテクストの外側から丁寧に質問を重ねていくことで、新しい建築の創作の根拠を浮かび上がらせようとしたことにも通じている。同時に、たとえば、日本国内でも同様の手法を取ることができるのではないかと想像させる。それは、コンテクストの内側に身を置きながら(そして、そのコンテクスト自体を十分に理解しながら)、それを同時に外側から見るような、二重の主体性によって成し遂げられるはずだ。作者の主体性は揺れ動き、相対的に時間の表象としてのエレメントが浮上する。そして、主観を投入して緻密に設計することで、翻って主体性が後退し、複数のエレメントが、価値の優劣なく併置される。このような空間は、もはや個人によって発明されたもののようには感じられず、また、クライアントやユーザーなどの特定の個人に帰属するものにもならないだろう。それは、大勢の人の目に触れ、記憶のなかで共有されていくような、人々の無意識に働きかけるものに近づいていくのではないだろうか。ここで、再び長谷川とメルクリの対話を見てみると、メルクリは、建築家が語る「建築」だけではなく、すべての人々が関わっている「建物」の文化を「建物文化」と捉え、今われわれが、どのように「建物文化」に関わることができるのかを自問している。文化とは、すべての人が関わるものであり、時間が経過するなかで、大勢の人の手が加えられ、維持されていくものである。そのような、時間的に開かれた、文化そのものとなる建築を創出させることによってのみ、「連続的で積層的な歴史観」の構築に貢献できるのではないか。
「連続的で積層的な歴史観」を建築の実践によって構築するために、歴史というものを、制御しえない無数の意思の蓄積として位置づけ、あらゆるモノを時間の表象として等価に捉えながら、それらの関係性を緻密に織り上げていくように設計すること。そして、このような設計行為によって、複数の時間を並存させること。このときに立ち現われる空間は、膨大な時間の蓄積に寄り添いながら、同時に新しい時間を断続的に紡いでいくような自律性を備えている。
長谷川豪の『カンバセーションズ』は、たんなる対話という形式を超えた、一つの文化そのものとしての建築を創作するための壮大なスタディの記録であり、そのような新しい建築の自律性に対する豊かな想像力を与えてくれるのである。