コンピュテーショナル・デザインと拡張するAI技術

小渕祐介(建築家、東京大学建築学科准教授)
ドミニク・チェン(株式会社ディヴィデュアル共同創業取締役)

ノイズを持った情報環境、都市空間の生成


マレー・シャナハン
『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』
(NTT出版、2016)

小渕──AIは最終的に何を目指しているのでしょうか。近い将来、AIは人間と同じように考えられるようになります。生き物すらも情報でつくれるようになります。そうした科学的な発展は止められませんが、情報技術によって何でもできるようになっていくなかで、どういう目標があるのでしょうか。また今後、何をもって都市は開発、展開されるのでしょうか。便利さ、効率を追求して、最適化を目指すだけであれば、簡単に実現できると思います。どのように人を豊かにするのかという議論はされているのでしょうか。

ドミニク──大局としてはいまのところ最適化を目指す方向を向いていますが、議論はまさに始まったばかりです。どれほど完璧を目指しても、AIも人間が設計して書くソフトウェアなので、ゲーリーが設計した建物が雨漏りをしたように、不可抗力的に問題が起きています。起業家と学術的な研究者とパブリックセクターの人では、それぞれ問題意識が違いますが、議論のプラットフォームをみんなでつくるべきフェーズです。
監修・翻訳として関わったマレー・シャナハン『シンギュラリティ:人工知能から超知能へ』(NTT出版、2016)のなかで、面白い比較があります。生命の進化のプロセスは、人工知能で言うところの報酬関数の設定値、つまり「こうすればシステムが充足する」という設定値を持っていないのです。がゆえに、カンブリア紀に生命の爆発的な増加が起こったし、ソフトウェアを書くなんていう変な生命体が生まれたのです(笑)。そこに意図はなく、いろんな生命のプロセスが生まれ、それらが偶然性と自然淘汰に委ねられ、結果としていま僕たちがここにいます。けれどもAIのディープラーニングにおいては、「これが善である」という目的となる変数、報酬関数を設け、いかにそこへ最速で向かうか、なのです。逆に言えば、いまの主流パラダイムのAIは最適化しかできないのです。それではノイズや多様性がなぜ大事なのかということを最適化の議論の遡上に乗せようとしても、まだ実効性のあるタームを繰り出せていないのが現状だと思うのですが、そのあたりもしっかりと科学で解明されるようになれば、もっとリッチな議論が可能になるだろうという予感はあります。
私たちは合目的的な意図に従わなくても無意識の動作や行動を起こすことができます。セレンディピティ、偶有性と言われる現象の価値を多くの人が異口同音に主張してきましたが、すべてを制御しようとせずに偶然性にあえて身を委ねる知性のかたちというものも定義できるようになるかもしれません。いずれにせよ人工知能の議論が面白いのは、逆説的に人間の知性について考えさせられるという点ですね。というのも、知能という言葉を「与えられた問題を解決する能力」で、知性というのは「問いを生む能力」だとすれば、生命としての人間にrelevantな問いを生めるかどうかに人工知能が「知性」と呼ぶに値するレベルに達せられるかがかかっているのだと思います。

小渕──ノイズや多様性を排することで、どんどんつまらない都市になってしまうのではないかという懸念があります。個人的には、インドや東南アジアの都市のような、雑多な生活が満ち溢れ、泥臭さがあり、ごちゃごちゃした、最適化とは反対の都市が好みです。僕も子どもの頃は、道で野球や缶蹴りをしていましたが、いまの子どもたちはなかなかできませんね。公園でもボール遊びをしてはいけないとか、とにかく管理が進んでいます。ある設定以外の出来事、ノイズが起きることを省いていく都市が当たり前になっていくのはまずいと思っています。もちろんAIによる、効率化や最適化、安心安全も重要ですが、それだけじゃないだろうと。私のノスタルジックな感覚なのかもしれませんが、フリクション(摩擦)があったときに、みんながワイワイやることに根本的な面白みがあると思います。最適化を前提とする未来の社会に対し、それをとにかく阻む建築家が生まれてくるだろうという希望、予想があります。どちらにしても、同じAIやディープラーニングというツールや技術を使うことになると思いますが、その前提でいま、何ができるのでしょうか。

ドミニク──フリクションという言葉は、インターネットカルチャー的にもよくリピートされる言葉です。シリコンバレーの企業の多くは、フリクションがないスピーディなコミュニケーションの実現を目指してきました。ですから、つねに倍々ゲームのように、データ量の多いものへの挑戦がなされています。瞬間的に写真や動画を送れることが理想とされてきましたし、いまの最新はVertual Reality(VR)技術によって、この瞬間の経験全体をいかに早く相手に伝えるかに技術が使われています。デジタルの「より大きな」情報を「より高速に」届けることが善であり、それによって人びとは豊かになるのだというパラダイムです。ですが、それは非常に単純で稚拙なコミュニケーションの捉え方にもとづいていると思います。コミュニケーションの本質はインタラクションです。例えば、僕がいま言ったことを小渕さんは僕の感覚ではわかりようがありません。であるがゆえに、解釈というクリエイティブなプロセスが走るわけですよね。完璧にフリクションレスなコミュニケーションは虚構だし、貧しい。では、本当に豊かな情報コミュニケーションとは何だろうかと考えると、別のテクノロジーや使い方があると思います。
いまのAIのパラダイムでもうひとつ問題なのは、「全体」への志向です。例えば、世の中にニュースが沢山あり、何百万件の記事が毎日書かれていますが、その中で「みんな」が最も興味があるものを計算するとか、ある傾向の集団に記事のレコメンドをするとか、トップダウン的なのです。先ほどおっしゃられたようなインドや東南アジアの都市は、おそらくトップダウンよりもボトムアップのダイナミクスのほうがより現実を反映している面白さがあると思います。僕は、情報技術がもっともっとパーソナルに寄り添うべきだと思っています。例えば、小渕さんのAIは小渕さん自身よりも小渕さんのことを知っていたり、相談ができる存在であれば、僕にとってはまったくコミュニケーションできないものかもしれません。でもその結果として小渕さんという存在の創造性を支えられたらいい。いまのFacebookの技術の使い方は人間を集団としてしか見ていませんし、ビッグデータは、小渕さんが小渕さんであることには興味がありません。人間に対して、そうした情報技術のフィードバックが強まると、個人のマインドも、より集団としてどうかという方向へと強化されていってしまいます。そうではなく、小渕さんが150%であり得るための小渕さんだけのAI、僕だけのAI、近所のおばちゃんのAIが別々にあり、それぞれが思い描くことが目の前で実現できるようになればと思います。そうなれば、ボトムアップの動きが活性化されていきます。

小渕──パーソナル・コンピュータからパーソナルAIですね。

ドミニク──日本的な言葉で言えば守護霊です。ご先祖様のように自分を見守ってくれるような存在。情報技術が面白いのは人間の解像度を高めていることです。いろんな例が挙げられますが、先ほどの話に結びつけて言えば、Gitは作業のルーティンとして触れるものなので、自分が普通気付かないようなレベルでの活動が記録され、どこで悩んで、どこで躓いて、何によってブレークスルーしたかが垣間見えます。そのような振り返りは、人間の脳の有限なリソースでは絶対にできません。外部化することで、自分自身はさらに遠くに行ける。そうしたパーソナル・コンピュータの思想をいまの大きな潮流のなかでいかに続けられるかが課題だと思います。

小渕──いまの話で面白いのは、情報すべてを追跡できるということですね。余談ですが、私の家系はいろんな国の血が混ざっているので、遺伝子解析サービスの「23andMe」をやってみました。ただ、データが何か悪用されてしまうのではないかとか、保険会社に渡ったら私のメディカルデータが統計的にわかるわけですから制限や不利益になるかもしれないという心配もあります。メリットがあれば、その裏面もあります。そういう意味で都市を考えると、やはりどれだけ個人が自由に振る舞える場ができるのかが問題です。情報技術が志向するような「集団」と、個人=パーソナルなものの関係が、今後の都市にどう影響していくのか、難しいところです。

ドミニク──ロンドンの街にはCCTVシステムによる監視カメラが、ものすごく大量にありますよね。ロンドンのカルチャーは昔からすごく好きなのですが、最近邦訳されたロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)のアンソニー・ダンとフィオーナ・レイビーの『スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。─未来を思索するためにデザインができること』(ビー・エヌ・エヌ新社、2015)も面白くて、アーティストやデザイナーの仲間ともよくあの本の話をします。ロンドンのデザインスタジオ「Superflux」は、CCTVの究極形態のようなプロジェクトをつくっていて、まさに社会のなかでスペキュレーション=議論を生み出そうとしています。そうした、ワクワクと危険性がないまぜになったバランス感覚は僕のなかにもあって、危険だからダメ、ではなく、いかに個人が自由にいられるかというところへ情報技術を持っていくことに関心を持っています。 生命のメタファーというのは、いろいろな分野で使われてきました。かつて僕も、『SITE ZERO/ZERO SITE』(メディア・デザイン研究所)という雑誌で、2008年に「情報生態論(Information Bionomy)いきるためのメディア」という特集を組ませていただきました。当時は、工学的研究や人文学的研究でも生命的なものを参照することが活発化していて、一種のブームでした。そのことの意味をいまも考え続けていて、まだ明確に言語化できていませんが、生命的であることの価値は、すべてが最適化された果てのつまらなさに対して有効なアンチテーゼのキーになるのではないかと思っています。人間の集団がいきいきと活性化している、エンパワーされている状態をちゃんとセンシングする技術は、まだ改善の余地があります。 また、最近興味があるのが、人間の精神的な「苦痛(Pain)」をビッグデータ化することです。個人が特定されないように匿名化する技術も発達していますし、法律的に定めるという議論もあり、簡単ではないと思いますが。

小渕──人によって苦痛か、そうじゃないかは違いますよね。

ドミニク──そのとおりですね。僕の苦痛度90%が小渕さんにとっては30%だけかもしれないというクオリアの問題もあります。いろいろ問題はありますが、なぜそこに関心があるかと言えば、民主主義的な言語による議論を経る合意形成プロセスの限界を感じる場面があるからです。ニュースなどを見ていても、それは合意形成できないだろうと思うようなことばかりです。いま、国家のある財源の配分を得ようというときには、まず声の大きいパワーを持った集団をつくって、ロビーイングなどが必要です。Bitcoinのような電子決済が普及すれば、まさにそのような中間的集団や代理的な政治家の恣意的な介入を飛ばして、人びとの苦痛や、苦しんでいる人たちを傾向化し、自動的、直接的に必要なところにお金を流すことができるかもしれません。また逆に、そうした技術を未来志向型にして、社会にとってポジティブな活動をしている人をちゃんと計測できれば、その集団や個人の税金が軽減されるとか、なんらかのかたちで報酬が回るように設計できるかもしれません。
いまのビッグデータやAI研究の世界では、そうしたソーシャルな議論までなかなかたどり着かないのが現状です。ある人のFacebookへの投稿からから嗜好データを推測したり、ソーシャルグラフを解析して、なるべく長い時間Facebookに滞在させるような情報の提示など、非常にミクロな精査がされています。そしてそれはFacebookだけの利益につながりますし、GoogleはまたGoogle自身の利益のために研究をしています。でも、AIにも都市計画や社会計画という観点が必要で、いかに情報技術を使うかが問われています。

小渕──ボトムアップ型の社会へのツールとしてAIが活用されるわけですね。ここ6年間、われわれの研究室でもビッグデータまでには到達していませんが、情報と建築の関係性をテーマとした研究をしています。膨大なデータへのアクセスを持っていないので理論的なものですが、都市の研究として先ほど説明した「サイバネティック・アーバニズム」というプロジェクトです。それは、普段都市を扱うときに省かれてしまう事物を繋げていくと、どんな新たな可能性があるかを考えたものです。例えば、虫や動物、ゴミなどです。通常人間の生活にとって直接メリットのない、必要のないものは都市のスケールでは考え難く、デザインの判断を決める要素の対象になってきません。しかし都市に存在するさまざまな弱い存在感のものの関係性、エコシステムを考えてみることでわれわれの生活環境の面白さが見えてくるのではという研究です。研究の背景として建築家は建物や街を設計しますが、実際のところ、物のデザインはすでにネット上に溢れ出るほどありますし、、おそらく新しい形や見た目に関する研究の将来性はありません。なので「もの」のデザインではなく、物流のネットワークや関係性を「キュレーション」する「こと」のデザインが今後の建築家のあり方なのではないかという提案です。



ドミニク──LIXILギャラリーで開催されている展覧会「Advanced Design Studies, The University of Tokyo. 新しい建築教育の現場」(2016年6月12日〜8月22日)では、割り箸によるパヴィリオンが紹介されていましたね。工学的に考えると、いかにあのスケールをプリントできる3Dプリンタをつくるかという方向にいきますが、人間がつくるというのが面白かったです。

小渕──従来の3Dプリンタの考え方を基本にしていますが、分散型の複数の手持ち3Dプリンタ(割り箸落とし機)がネットワークされて大きな3Dプリンタと同等の機能をするというものです。割り箸を落とす所はプロジェクションマッピングを用いて作業者に指示を出し、積まれた割り箸は、随時3次元スキャニングと構造解析をして、積まれた形状が目的の形状とどれだけずれているのかをリアルタイムで計測します。積まれ方に間違いがあったときはやり直すのではなく、新しい形状を計算し、目標に近づきつつも最終的には少し違うものができるのです。

ドミニク──ノイズや脱線を許しているので、単純な最適化ではない。慶應SFCでは、田中浩也さんたちが建築をつくる3Dプリンタをつくっていますが、それとは違った思想ですね。

小渕──デジタルファブリケーションの極論は、間違いをゼロにすることですが、真逆です。間違いを間違いとして否定するのではなく、間違いによってキャラクターやクオリティが生まれてくるというものです。理想への精密さを求めるのではなく、人間の持つルーズさを利用しつつ、工学的につくります。そもそも日本の伝統的な建築もそういう感じだったのではないでしょうか。完璧な図面はありません。

ドミニク──人間が入ってノイズを挿入したほうが、生命的なアウトプットになっていくと。報酬関数にノイズをセットするのは相当難易度が高いので、AIが自律的にノイズを生成することが不得手です。一方、人間の脳は合理性を突き詰めるようにはできていないので、苦手なことはAIに任せ、非合理的なところに時間を集中させられたら幸せなAI社会になるのではないかと思っています。まだ楽観的で無責任な話ですが。
また、人間のコミュニケーションのベースは誤解です。誤解にも良いものと悪いものとがありますが、意味のズレにこそ意味があります。小渕さんの言っていることが100%僕の脳内に流れてきたら、それはコミュニケーションではなく単なる伝送ですよね。

小渕──人間は理性的に考え、理性的な制度をつくりますが、根本的には感性的な生き物です。そして、建築はコミュニケーションのためのツールです。歴史を見ても、建築は、考え方や意味を示すための様式を持ち、社会に対してコミュニケーションを取ってきました。ですから、現代の建築や都市は、コミュニケーションを増やし、解釈が多様に生み出されることに可能性があります。さっと行けてしまうところを迷うことで可能性が増える。想像力が沸いてくるような都市空間です。都市が生命的になるには、法律や条例も随時アップデートできるようになればいいですね。建築基準法は日本のどこでも安全な建物が建てられるという素晴らしいものですが、その反面、どこも同じ、つまらないものにもなります。ある基本の上に、コミュニケーションや活動によって、付加価値を生み出すことがデザインです。

ドミニク──「Airbnb」は都市の新しい文化であり、付加価値ですね。いま、僕の友だちは日本に来るときはみんなAirbnbを使っています。安いということもありますが、やはり現地に住んでいる人の生活が見たい、そこに住んでる人の声を聞きたいと言います。人工的なホテルよりも、オーガニックな風景としての個人宅に泊まるというのは、ある種のVR的な解像度を高めたいという欲求に近いのかもしれません。日本でもオリンピックに向けて民泊の規制緩和がされていますが、そうなればAirbnbに適したコンドミニアムや、民泊にも使える住宅のデザイン、販売などが出てくると思います。ホテル業界との摩擦はありますが、ビジネスに直結していて、観光立国というポリシーにも添うものなので、新しい都市形成へのインパクトになると思います。

小渕──経済的な利益を求めた最適な戦略ではなかったということが面白かったのですね。今後は逆にホテルよりAirbnbのほうが高くなるかもしれません。


201607

特集 建築・都市──人工知能という問題へ


コンピュテーショナル・デザインと拡張するAI技術
建築のAIはバベルの塔か
人工知能の都市表象
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