建築の「大きさ」とはなにか?

沢山遼(美術批評)
12回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展での金獅子賞受賞とほぼ時期を同じくするように、東京・銀座の資生堂ギャラリー豊田市美術館の2カ所で、石上純也による建築展が開催された。

資生堂ギャラリーでの個展が、多くのごく小さな建築模型で構成されたものであったのとは対照的に、今回取り上げる豊田市美術館での個展は、ヴェネツィアとほぼ同じヴァージョンの作品の展示をはじめ、大規模なインスタレーションで構成されたものである。

だが、資生堂ギャラリーでの展示が「建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?」と題されていたことを想起すれば、それと「建築のあたらしい大きさ」というタイトルが付けられた本展に通底するものが、ともに「建築」の「大きさ」であることが推測されるだろう。資生堂ギャラリーのミニアチュール建築群は、通常のスケールよりわずかに小さい規模でつくられ、豊田市での展示は逆に、通常美術の領域でインスタレーションと呼ばれるものよりも大きなスケールで実現されていた。双方の個展を観る者は、建築のマケットでもなく、彫刻でもなく、美術におけるインスタレーションでもない、なにかの到来を感じながら、既存のスケール感を少しずつ横滑りさせていく、石上独自の設計を経験することになるだろう。

この印象はおそらく、石上が美術館やギャラリーといった、通常は美術作品のために用意された空間の内部で構造物を設置・発表してきたことによっても強められる。美術館やギャラリー空間の内部に設置された構造物は、美術と建築の双方を、社会的・文化的コンテクストのみならず、サイズの現実性においても抱え込んでしまう。ここでは、既存の美術や建築という各々のジャンルに内在するスケール感覚によって、適切な大きさのレベルを自らの身体感覚の内に位置づけることの困難が控えていると言っていい。この意味で、石上の展示を観る者には、文化的に規定された「大きさ」の観念を絶えずつくり変え、構築し直すような作業が求められる。石上の構造物を測る尺度は、私たち鑑賞者に容易には与えられていない。

しかし、初期の活動において建築よりもむしろ美術の世界で評価されたという経歴や、建築の実作より美術館やギャラリーでの作品発表の機会が多いこと、あるいは先のヴェネツィア・ビエンナーレや今回の豊田市美術館での作品の倒壊をもって、現実性を破綻させた「アーティスト」のイメージを石上の上に過度に投影させることは避けられるべきだろう(たとえば、作品が壊れることは建築家・石上純也にとってネガティヴな事実でしかない)。

豊田市と資生堂ギャラリーでの双方の個展のタイトルに掲げられていたように、この場合、石上が拘る「大きさ」とはあくまで「建築」に関係するものである。ゆえに私たちは、この「大きさ」を身体的・制度的に計測することの困難を、再び「建築」から観測しなければならない。設置された作品群は、資生堂ギャラリーでの展示と同様にすべて特定の建物の模型であり、実現可能性へと向かうプロジェクトの一環なのである。本展で、1/1を実寸としたときの縮尺がすべての作品のタイトルに付与されているのは、そのことを暗示している。しかし、石上の建築において不可解なのは、その縮尺が必ずしも人間を対象としたものではないということだろう。

たとえば最初の展示室に入ると室内の全域にわたって《雲を積層する scale=1/3000》が、わずかに振動しながら漂うさまが見えてくるが、1/3000という数字は、全長3mmの蟻に対し雲の粒が直径0.01mmであるという計測に基づき、1/3000の縮尺で人が蟻における雲の粒の大きさを建築の床の厚さとして経験するときのスケールを意味する。格子を上下左右に連結させた0.7mmのカーボンファイバーの枠組を単位として、ティッシュペーパーのように薄い不織布を「雲の床板」として幅7.6m、高さ5.5mの立方体にまで積層させたこの作品では、ゆえに[人の大きさ]:[建物の床の厚み]=[蟻の大きさ]:[雲の粒の大きさ]という等式が導かれる。すなわちこの模型のなかを同じ縮尺の人間が歩く感覚は、蟻が雲の上を歩く感覚としても与えられている。

ここでは、蟻が雲に対して行なう知覚認識が、人間に対応するところの床板の厚みに折り返されている。このとき建築の尺度を決定するのは、蟻の大きさでもなく、人間の大きさでもない。また、蟻と人間の実際のサイズの差が問題にされているわけでもない。むしろ蟻が、雲という人間にとっては現象でしかないものを物質として認識・知覚する行為の形式が、蟻の大きさを経由して、想定されているのである。だから石上にとって、蟻のような生物と人間との差異は、「サイズ」ではなく、やはり「スケール」に関わるものである。繰り返すが、サイズではなくスケールでなければならないのは、蟻の身体モジュールではなく、蟻の認識能力を建築の意味作用とすることが目論まれているからだ。サイズとは異なりスケールとは(「サイズ感」という言葉が存在せず、「スケール感」と言われるように)身体的/現象学的なレベルに関わるものとして、明証的かつ客観的な大きさの単位とは対立するものである。

だから石上の建築において大きさとは、つねに複数化されたものとしてある。唯一の尺度はなく、複数のスケールが媒介されなければならない。建築がこの複数の「大きさ」をくぐり抜けるならば、おおよそこれまで建築とされていたもののモジュールは再考されなければならないだろう。

たとえば先の作品に関して、彼は次のように述べている。「蟻の世界くらいのスケールになると、草や葉や花などの植物も構造体として感じられるのだと思う。自然現象でさえも、ぎりぎり構造体として感じられるようになるのかもしれない。雨粒なんて、きっと砲弾みたいだ」。ここで述べられているのは、雨粒が砲弾であるような場所においては、「自然現象さえも」構造体として感じられるのではないかという認識である。すでに述べたように、石上にとって構造体とは、人間的尺度を唯一の準拠として設計されるものではない。そこでは「感じられる」という現象学的な枠組みこそがフレームアップされ、蟻のような生物によって「感じられた」スケール感さえもが投影されている。 その上で石上は、「建築が、構造体も含めて、自然現象に近いスケール感になること」を志向するのだ。その意味でいえば本展(のみならず石上純也の制作のすべて)は、自然現象がすなわち建築であるというラディカルな定式の実践として見ることができるだろう。彼がこれまでも参照してきた雲や霧は、環境を覆い包むものとして準環境的・非建築的なシェルターとなり、いわばそれは建築の原理的なプロトタイプとして組織される。雲や霧などの水蒸気は地球の表面を覆うものであるがゆえに、すでに建築なのだ。おしなべて石上の建築においては、「覆う」という要素が極めて重視されているように見える。

3番目の展示室に設置された《地平線をつくる scale=1/23》では、カフェテリア、雨天練習場、多目的広場などの施設が入る巨大な面積の敷地を、壁面や柱を設けることなく、平均2.3mの天井高、厚さ30~50mm程度の薄い屋根のみで覆うことが試みられている。このプロジェクトが実現されるならば、2.3mの低い天井高によって側面の壁の存在感は遠ざかり、あたかも一枚の屋根のみが空間を覆うような感覚を得ることができるだろう。その空間はただ薄く、広い。通常、人間の視線の平行性に対して地平線がわずかに高い位置に見えることを加味すれば、この建築がなにもない風景のなかに置かれたとき、屋根の高さは地平線の高さといずれ重なりあう。それが「地平線をつくる」ことである。そのため、タイトルにある「地平線をつくる」こととは、たんなる詩的な空想でも詭弁でもない。

ここで、「覆う」という作業は複合的なものとして現われている。「覆う」機能が透明に引き延ばされた建築は大気や霧や雲に近づき、さらに地平線を建築のフレームとして参照することによって、それは「風景」へと通じるだろう。加えて《森と建築のあいだ scale=1/50》では、風景としての建築が森へと接近することで実現されている(このプロジェクトは《神奈川工科大学KAIT工房》として竣工された)。「森のような建築」が目指されたというこの工房は、壁面での区画を排した空間が305本の柱によって支えられている。展示室壁面に映写された映像では、道なき森を彷徨うように、個々の柱の間を縫うように歩く学生たちの姿が動物のように見える。石上にとって森は、樹木の群生を根拠として一定の空間を覆うものであるがゆえに建築的であるだけではなく、個々の柱(=樹木)が空間をランダムに遮ることによってその空間に固有の生態系(環境)を発生させる手がかりとなるのだ。

おそらく、ヴェネツィアで展示されたものとほぼ同じヴァージョンである《雨を建てる scale=1/1》は、建築=森のアナロジーを雨へと転化させたものである。カーボン製の直径0.9mm、高さ4mの自立した柱を支点に、地面から太さ0.02mmの52本のワイヤーをくくりつけたツリー状の構造体が林立するこのインスタレーションでは、柱とワイヤーの太さにそれぞれ雨粒のスケール(0.1mm~5mm)と雲の粒の大きさ(0.01mm)が想定されているという。極細の柱とワイヤーによる「森」は、ここではもうひとつの環境的シェルターである雨と雲へと生成しているのである。

しかし、糸が照明によって反射される一瞬、監視員の黒い制服を作品の背後にする一瞬などを除けば、空間に張りめぐらされたわずか0.02mmの糸の群れを可視性の範疇に留めておくことはほぼ不可能である。インスタレーションの周囲をめぐる者は、雨と雲のツリーの一部が、可視性の手前で過ぎ去っていくのを茫然と眺めることしかできない。そして、全体が開示されることなくその予感とともに感知されたものは、自動的に、視覚の範囲を超え想像力によって補われもするだろう。

《雨を建てる scale=1/1》において、現象と実際の物質の差異は見極め難い(つまり、織りなされた糸が実際に視認されたものなのか、それとも観察者自身の内に想像された物質的なざわめきなのか判別することができない)。これは、雲や雨といった、人間的スケールにおいては現象に過ぎないものが物質へと変貌する蟻の微粒子的な感性を、人間の内部において先取りすることだろうか。しかしそれはもはや感性や感覚とも呼べないなにかだろう。しかし、いかに微細なものであれ、感じられるものは必ず建築的要素として縫合可能であるとする石上のテーゼに従うならば、そこで私たちに課せられていたものは、それを感じられるものの範囲へと再び送り返すことであったはずだ。そして、感覚されたものは視覚と想像力の差異を超えて、両者の接近とその境界を、建築的な臨界として差し示すのである。

《雨を建てる scale=1/1》のみならず石上の実践は総じて、感覚されるもの、想像されるもの、現実的なものの対立を避けるようにして行われてきた。現在のところ、その歩みは一貫している。朝霧のように儚い衝動を喚起するこの構造物が、ヴェネツィアと豊田市で幾度となく倒壊の不幸に遭ったにも関わらず、建つことへの強い意志を持って何度も蘇生してきたのは、そのことの証左であるように思われた。

さわやま・りょう
1982年生。美術批評。武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻修了。論文に「レイバー・ワーク──カール・アンドレにおける制作の概念」(『美術手帖』2009年10月号)、「非在の表象──ゴードン・マッタ=クラークの初期作品群」(『LACワークショップ論文集』第2号、LAC研究会、2008)など。


201012

特集 石上純也──現代・日本・建築のすがた


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