伊東豊雄インタヴュー──伊東建築塾の1年、「みんな」で考えるこれからの建築

伊東豊雄(建築家)、聞き手:平塚桂(建築ライター)
震災復興に向けて隈研吾、妹島和世、山本理顕、内藤廣と結成した「帰心の会」や、仙台を皮切りにいくつかの施設が実現しつつある「みんなの家」。こうした伊東豊雄による復興支援活動についてつねづね不思議に感じていたのは、プロジェクトのネーミングや成果物のヴィジュアルから受ける"正直"さだった。伝わってくるのは建物の形以前に人と人とのつながりを大事にしようという意志なのだが、伊東はそれを、かなり戦略的に前面に打ち出しているのではないだろうか。その疑問をインタヴューのなかで投げかけてみたところ、伊東からは「あえてやっている」という回答があった。建築界からの批判は織り込み済みで、コミュニティという言葉を使い、復興計画に合掌造のシンボリックな案を出しているというのだ。伊東はあえて"正直"にふるまうことで、建築家たちをあおっている。なるほど、これは教育なのだ。そうわかれば、建築家らしからぬデザインやネーミングにも合点がいく。もしかしたら復興支援活動も、3人の若手建築家とともに製作する今年のヴェネツィア・ビエンナーレ建築展での展示も、広い意味では「伊東建築塾の塾長」としての活動なのかもしれない。建築塾の活動は、建築家・伊東豊雄にとって大きな意味を持っている。そのことが明確に伝わってきたインタヴューだった。

平塚桂



伊東豊雄氏

──本日は伊東建築塾の昨年度の活動の手応えと、これからの展開についてうかがいたいと思います。まずは建築家という立場にありながら塾を設立する、主たるモチヴェーションがどういったことにあったのか、その動機や経緯を教えてください。

伊東豊雄──僕が今まで考えてきたことを若い人たちに伝えていきたいという気持ちはずっと持っていました。そして背景には、建築学科の学生たちが考えるプロジェクトが時代や社会とずれてきているのではないか、という問題意識がありました。建築家の世界でしか通用しない論理で語られ、社会に対して開いていない。これでは建築家はますます社会から信頼されなくなってしまう......そんな危機感があったんです。昨年の初めにNPO法人「これからの建築を考える」を設立し、塾を5月に始めようとした矢先に3月11日の大震災に遭遇しました。そこで講座のひとつ「若手建築家養成講座」では当初考えていたプログラムを変更し、震災をテーマとしました。そして6月初めに塾生たちと釜石に出かけて、3日間のワークショップをしたのです。そのワークショップは、昨年10月に発表した釜石の復興計画案にもつながりました。

伊東建築塾「若手建築家養成講座」の様子

釜石でのワークショップ

──「若手建築家養成講座」の参加者は、どういった方が多かったのでしょうか。

伊東──参加者十数人のうち学生が4割、社会人6割くらいです。学部生から40歳を超える方まで幅広い年齢層で、建築を専門としていない方から設計事務所を運営している方までいろんな立場の方が集まりました。当初は釜石の復興計画を一緒に考えていたのですが、街全体のことを考えるのは難しすぎるようだったので、後半のカリキュラムでは同じ釜石のどこかに「みんなの家」を提案する課題をやりました。最終的には商店街の中に実際につくることになり、塾生のうち何人かが図面を描き、現在は着工寸前というところまできています。

釜石鵜住居地区復興計画案[クリックで拡大]

釜石東部地区復興計画案[クリックで拡大]

釜石市漁師の「みんなの家」[クリックで拡大]

釜石市商店街の「みんなの家」[クリックで拡大]

──塾という言葉のイメージとは異なる、とても実践的な学びの場だったのですね。本年度はこの方向性をどう引き継いでいかれるのでしょうか。

伊東──なかにはとてもがんばってくれる方もいたのですが、2週間に1度しか会わないので事務所のスタッフのように「これ明日までに考えてよ」というやり方はできません。また、僕が日頃大学生に感じていたようなリアリティのなさを塾生に対しても抱き、少し残念に思いました。2週間に1度の授業をベースにものをつくることには限界があると実感したので、本年度のカリキュラムは「建築とは何か」ということをじっくり考える方向へと、少しシフトさせることにしました。

──講座A「建築って何だろう?」、講座B「建築を深く考える」、子ども建築塾「いえとまちって何だろう」と、本年度は3つの講座があるようですが、特に講座Bにおける3つのテーマは「建築はどのようにつくられるのか」「江戸から昭和にかけての東京を知る」「大震災から未来のまちを考える」と、いずれも建築や都市の根源的なところを扱っています。

伊東──講座Bは昨年度の「若手建築家養成講座」に相当するもので、今年度の特徴です。建築を本職にしていない方にも興味を持ってもらえる講座を意図しています。「建築はどのようにつくられるのか」は、構造、設備、光、テキスタイルや家具など建築に関わる設計者やデザイナーの視点に触れ、建築がどういう考え方でできているのかを知ってもらうプログラムです。「江戸から昭和にかけての東京を知る」では、昨年の講座で新宿御苑をご案内いただいた石川幹子さんに加え、藤森照信さんや陣内秀信さんをお呼びして、歴史的な視点から建物や街を解説してもらいます。「大震災から未来のまちを考える」では仙台市長の奥山恵美子さんや東北大学の小野田泰明先生、釜石の宝来館の女将・岩崎昭子さん、陸前高田市高田第一中学校避難所の世話役をつとめ、その後も復興に孤軍奮闘されている菅原みき子さんなど、被災地で素晴らしい活動をされている方々にお話をしていただく予定です。

──建築家教育をテーマに掲げる伊東建築塾ですが、あえて多彩なジャンルの方を呼ばれているように感じられます。その意図はどういったところにあるのでしょうか。

伊東──やはり建築の枠に閉じこもると社会とずれてきてしまうので、いろんな角度から柔軟に建築を考えたいということですね。そして昨年は苦しいことばかりだったので、今年は楽しさも大事にしようと思っています。

──楽しさという意味で気になるのが「子ども建築塾」です。昨年に引き続き今年も開催されるようですが、手応えはいかがでしたか?

伊東──実は昨年度、最も成果を実感できたのが子ども建築塾です。当初15人を予定していたのですが応募が多く、小学校3年生から6年生までの20人規模で開催しました。前半10回で「わたしの住みたい家」、後半10回で「まちについて考える」と2つの課題を行ないました。前半の課題は、最初に「住みたい家」を画用紙に描いてもらい、それをもとにスケール、家族といったテーマごと、実際の建築に必要なことを検討していきました。後半の課題では、まちを歩いて場所を見つけ、いくつかのテーマに沿って住みたい街の提案を考えてもらう、ということをしました。いずれの課題でも模型づくりとプレゼンテーションをしてもらいました。後半の課題では東京大学の村松伸先生と、いくつかの大学から来た学生アシスタント10人以上が指導についてくれました。でも子どもたちの反応がすばらしかったので、指導している学生さんこそ学ぶことが多かったんじゃないかな。


伊東建築塾「子ども建築塾」の様子

──大勢のお子さんをリードするのは大変なのかと思いましたが、むしろ与えられることが多いのですね。1年間塾を運営されて、伊東さんご自身が得られたものとは何でしょうか?

伊東──塾生を育てる、子どもを育てるということも大きなテーマでしたが、それ以上に自分自身の建築を考える、これまでにない1年になりました。事務所設立40周年の会★1で考えたこと、大震災の後に被災地で考えたこと、伊東建築塾で考えたことはすべてオーバーラップしていて、それは一言でいうと「批判をしないで建築をつくることができないか」ということなんです。このことは「みんなの家」にもつながっています。

──最初に仙台でつくられ、釜石でのプロジェクトやヴェネツィア・ビエンナーレでの展示へと展開しつつある「みんなの家」誕生の経緯を教えてください。

伊東──大震災の後に考えたのが「とにかくできることから始めよう」「でも批判はしないようにしよう」ということです。たとえば仮設住宅の計画や居住性がよくないと指摘することはいくらでもできますが、それを言っても始まりません。そうではなく仮設住宅のなかに「みんなの家」をつくることで建築家のポジションを変えられるのではないか。そして建築家のアイデンティティやオリジナリティを消したところから「みんな」で建築を考えると、今までより面白いことが起きるに違いないと考えたわけです。

仙台市「みんなの家」住民説明会


仙台市「みんなの家」

──「みんなの家」の写真を拝見したとき、表面的にはこれまでの伊東さんの建築とは違うオーソドックスな建物という印象を受けましたが、そうした部分にも考えの変化が表われているのでしょうか。

伊東──少し振り返って説明しますと、僕が事務所を設立した1971年というのは、大阪万博の翌年、つまりメタボリズムの時代が終わった後でした。明るい未来の描けない、夢のない時代に建築をつくらなくてはならない、というところから建築家としての活動が始まりました。仕事もない、社会からの要請もない、なのに建築をつくりたいという衝動だけがある。すると社会を批判するかたちで建築を考えざるをえません。これまではそんなふうに、外側から社会を批判する起爆剤のように建築を考えてきました。現在のテーマはこの考え方を払拭し、社会の内側に立って如何に建築を考えるかということなんです。

──なぜ今、被災地から建築を考えることが重要なのでしょうか。

伊東──三陸というのは世界経済の影響をあまり受けていない場所ですが、それゆえにすばらしいことがたくさん存在するということを実感できました。巷では「絆」という言葉が嫌というほど飛び交っていますが、東北ではその「絆」を実感できるわけです。むしろ被災地で起きていることに、これからの社会の本質があるという気がしています。

──建築家は「絆」のような論理に還元しにくいものから建築を考えることを苦手とする方も多いのではないかと思います。そこで伊東さんがあえて、共同体に密着したところから建築を考えようとされる理由とは何でしょうか。

伊東──あえて、というのはあるんです。僕がコミュニティという言葉を使うと「なんでそんなわかりやすい言葉を持ち出すのか」と嫌がられるけれど、あえて使っています。釜石に合掌造を提案すると「なぜ建築家がこんな提案をするのか」と言われますが、あえて批判を甘んじて受けようと思っています。復興計画案は、街の人たちがつくってみたいと思うものにしないといけません。いくら論理的に考えを説明しても、見向きもしてもらえません。まずは僕らが同じ視線で話しているという姿勢を示さないとなりません。それは論理の問題ではないと思っています。

──現在の伊東さんからは、ある種の自由さ、あるいは軽やかさのようなものを感じます。論理を詰めていくことで論理に絡め取られるようなところから離れ、言葉を繰り出すのではなく体を動かすことで、その先にある何かを見たいと思われているようにも見えます。

伊東──僕がやろうとしているのは、建築家という鎧を捨てたところで人と話し、自分がそこで何を感じ、そこからどんな建築ができるかを考えるという単純なことなんです。最初に仙台市に建てた「みんなの家」で無防備になって、いろんな対話ができたので、現在は無防備なところからもう一度建築に組み立てていくようなことを考えたいと思っています。

──楽しみですね。今年はヴェネツィア・ビエンナーレで「みんなの家」を展示されます。東北とはまったく違うコンテクストで、しかも展覧会というかたちになりますが、どんなものになりそうでしょうか。

伊東──僕がプロデュースして、乾久美子さん、藤本壮介さん、平田晃久さんの3人の建築家とともに、ひとつのものをつくります。また写真家の畠山直哉さんも参加しています。畠山さんは陸前高田のご出身で、昨年秋の東京都写真美術館での個展「ナチュラル・ストーリーズ」にも震災の被害を受けた陸前高田の写真を発表しています。畠山さんは大変に強いスタイルを持った写真家ですが、震災後に震災前と同じような方法で作品を撮ることができないと考えているところに共感をしています。 当初のコンセプトは、ビエンナーレ会場に「みんなの家」をひとつつくり、それを被災地に持って行くというプランでした。しかし3人の建築家と陸前高田に行って現地の方に話を聞き、とにかく先に陸前高田につくるのがよい、ということになりました。方向性は決まりつつあります。今までの彼らの建築とも違う、しかしまったく何でもないものでもない、すごく面白いものになりそうです。でも3人の若い建築家たちは建築家としての論理をキープしたいという意志がまだまだ強いですね。そんな彼らの議論にちょっかいを出す、というのがまた面白いんです。


3月23日、伊東豊雄建築設計事務所にて




★1──2011年2月21日「座・高円寺」で行なわれた伊東豊雄事務所設立40周年記念パーティでは、伊東のこれまでの建築作品を軸に建築のこれからを考えるための討論が行なわれた。全体は3部で構成され、第1部では、藤森照信が、磯崎新と石山修武から話を引きだし、70年代から80年代をふりかえった。第2部では伊東の転換期となった《せんだいメディアテーク》をめぐり、朝日新聞編集委員の大西若人が当時の行政の担当者で現仙台市長の奥山恵美子に《せんだいメディアテーク》という新しい公共施設の実現をどのように支えたのかを、続いて塚本由晴が原広司に情報と建築について話を聞き、第3部は、伊東自身が中沢新一をゲストに迎えて、これからの建築についての討議を行なった。

201204

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