「ポスト・ネットワーク」のメディア論的転回とはどのような状況でしょうか?
──ポスト・メディア論的転回私観
──ポスト・メディア論的転回私観
本稿は、編集部からの「『ポスト・ネットワーク』のメディア論的転回とはどのような状況でしょうか?」という問いかけのもと、著者にご解答いただきました。(編集部)
最初に白状してしまうと、冒頭に掲げた本稿のタイトルはじつは「10+1」編集部から執筆依頼があった際に指定されたものである。つまり筆者が考えたものではない。示されたタイトルを前にして筆者は正直言って躊躇を覚えた。だが、暫く考えた末、提案のままのタイトルでお受けすることに決めた。逡巡したのは、新進気鋭の「批評家」たちやいまをときめく自称「哲学者」たちが好んで使いそうないかにもキャッチコピー然とした語彙の並びに鼻白んだからではかならずしもない。筆者の率直な印象として「ネットワークメディア」の「
〈ネット-ワーク〉パラダイムの7年
東日本大震災という自然災害に続いた人災である福島第一原発事故が起こった2011年はメディア史的に見ても重要な年であり、1月にはSNSを駆使したジャスミン革命の成功、日本に目を転じて、7月の地上波完全デジタル化の不発と急速なテレビ離れ、9月にはネットを利用した米動画配信大手Huluの日本上陸、と、立て続けにテレビが牽引するマスメディアからインターネットへの構造的なシフトが世界規模で生じている。筆者はこの年を以って〈マスメディア〉パラダイムは名実ともに終焉し、インターネットを技術的インフラとする〈ネット-ワーク〉パラダイムの覇権がなったとみる
新しいメディアパラダイムでは同年、早速アップルの「
ビットコインの本質
だが、ここ1、2年の、バズワードも含めたネットに関連する現象の動向を注意深く観察するとき、そこにはある、質的水準における変化の兆しが認められる。具体的なバズワードや出来事を挙げるところから始めるとすれば、グローバルなレベルでは「ビットコイン」、ドメスティックなレベルでは、まだ読者の記憶にも新しいであろう、2016年末に発覚したDeNAが手懸けるキュレーションサイト上の不適切記事を巡っての騒動が注目される。ビットコインとDeNAの不祥事とに一体何の関係があるのだ、と訝しがる向きもあろうが、これらは〈ネット-ワーク〉パラダイムが現在直面する〈問題〉の2つの"露頭"であって、"根っこ"ないし"本体"は共通である。〈問題〉の本質に迫るためにも、まずは2つの"露頭"を個別に考察しよう。
「ビットコイン」から始めたいのだが、この言葉は2014年にすでに一度バズワードとして世間の耳目を集めた"前歴"を持つ。渋谷に本拠を構えていたビットコイン交換所の当時の最大手であった
筆者としては、しかし、「ビットコイン」から「ブロックチェーン」部分だけを抽出して評価しようとする昨今の論調には疑問を持つ。それはビットコインが元来持つアナーキスティックで反体制的企図の"毒"や"牙"を抜くことになるといった政治的理由からであるよりは、むしろそうしたアプローチは「ビットコイン」が拓いた地平の本質的意義を見失わせる結果になる虞れが大きいと思うからである。詳しい議論は紙幅の関係上、別稿に譲るが 、ここでは論証抜きで結論だけ記すにとどめる。
DeNA不祥事が意味すること
次はDeNAの不祥事である。これは同社が手懸ける医療関係のキュレーションサイト(いわゆる「まとめサイト」)の内容が他サイトからの無断転載や無根拠な情報のオンパレードだったことが発覚し、同社のすべてのキュレーションサイトが閉鎖に追い込まれ、重役陣による謝罪会見を余儀なくされた事件である。だがDeNA事件は氷山の一角に過ぎず──むしろDeNAの対応は迅速だったとすら言える──今回露見したインターネット上に存在する情報の「粗悪」「低品質」は〈ネット-ワーク〉パラダイムが構造的に抱える懸案とも言える。現にアメリカでも今度の大統領選がらみで同様の問題が明るみに出ている。
筆者は放送局に10年近く勤務したので分かるのだが、マスメディアにおいては、現場に実際出向いたり、当事者に直接確認したりすることで「情報」の"ウラを取る"ことが徹底され、そのことがマスメディアで働く者たちのプロフェッションとプライドとを支えている。また、マスメディアのヒエラルキカルな構造も、手懸けた「情報」の〈質〉と連動して上がる職位・報酬へのインセンティヴ付与や
一方今回問題化したDeNAのケースでは、なんらプロフェッションとしての自覚もなければ、またそのための教育やトレーニングも受けていないズブの"素人"あるいはヴェンチャーもどきが専門領域に首を突っ込んでビジネスの"ネタ"にしようとしたわけだが、この場合、情報の捏造や剽窃を実行した当事者の倫理の欠如を咎めたり攻撃しても無駄である。なぜなら一介の"素人"に過ぎない彼らにはそもそもそうした倫理に従う謂われも理由もない、すなわちそこには〈情報〉の〈質〉確保に対するなんらのインセンティヴも働いていないからである。これは〈メディア〉構造の問題であって個人道徳の問題ではない。個人を何人か失脚させ追放したところで、再び同様の事態が
〈情報〉社会と〈価値〉
〈情報〉
201701
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