建築のなかの/建築のような
たとえば日本の場合──建築のなかの人々
建築写真には人が写っていない、とよく言われる。職業的に撮影される竣工写真を別にしても、建築雑誌の作品紹介として撮影される写真では周到に人が排除されている。あるいは周到にセットアップされている。アメリカの建築写真家で《ケース・スタディ・ハウス No.22》の写真で名高いジュリウス・シュルマンが撮影の際、フラッシュ・照明の隠し場所、細々としたインテリアの位置から、人物たちの衣装や配置について指示を出していたことは繰り返し語られてきた。住宅は生活の舞台であり、人物のセットアップあるいは演出(mise en scène=舞台に上げる)は、建築芸術と舞台芸術が姉妹であった西洋建築の伝統に正しく棹さしているというべきだろう。一方で、日本の建築写真において人物は嫌われた。木村伊兵衛・渡辺義雄、あるいは土門拳に代表されるリアリズムの地盤の堅固さをそこに認めても良いかも知れない。しかしながら、戦後の建築雑誌を端からめくってみれば、少なからず人が写り込んだ写真があることがわかる。山田脩二の撮影した、自邸の書斎で影の中に暗く沈む白井晟一の後ろ姿(『建築』7201)。《桜台コートビレジ》手前の土手でゴルフクラブを振る父と、傍らの母子の横顔[図1]。《岡山県立少年自然の家》の物憂げな少年たち[図2]。石元泰博が撮影した丹下健三《子供の城・ゆかり文化幼稚園》の子どもたち(『SD』6708)等々等々。山田の名高い《新宿西口前広場》を撮影した写真では、高密度な人の群れは渦となってバターのように溶けてしまう(ただ山田の写真では建物自体が溶解してしまう事態も頻繁に訪れるだろう)。ともかく、60年代後半において建築写真への人の導入は画期的な事態ではあった。この動きを積極的にうながしたのは『SD』誌であり、山田脩二なのだが、そのような写真が他誌になかったわけではない。新建築写真部が撮影した相田武文《PL学園幼稚園》の写真(『新建築』7401)では、子どもたちがほんとうに活き活きと駆け回り、カメラに向かってまっすぐに進んでくる。子どもたちの運動は画面に活力を与える。こうしてページを繰るうちにほどなく、写真に写る人々にある傾向を認めるだろう。彼らは一様に、顔をもたない後ろ姿、横顔、あるいは匿名の群衆であるか、そうでなければ子どもたちなのだ。
建築写真に存在を許された人々とは、後ろ姿、横顔、群衆、子ども、である。よい大人が、正面から堂々と建築写真に顔を出すなどということはあってはいけない。それは建物を設計した建築家以外の者の意志が、そこに写り込んでしまってはいけないとでもいうかのようだ。無垢な存在として仮説された子どもたちは、無邪気さゆえに、カメラを見返すことが許される。
そのなかで、新建築写真部によって撮影された《佐賀コロニー》(第一工房)の写真が、ある種の迫真性を伴ってわれわれの目に迫ってくる[図3]。群棟が奥へと連なっていく様子を浅い俯瞰からとらえる写真のその前景に、ぽつんとひとり佇む視線がわれわれを見返している。彼の曖昧な視線が衝迫力をもつのが、写真の力なのか、それとも《佐賀コロニー》が知的障害者のための施設であるとわれわれが知っているからなのかは、判断がつかない。一枚の写真、「詠み人知らず」の写真、歴史からこぼれたように残ってしまった写真に対して、発表された写真ははじめから自立して存在するわけではない。一枚の写真に内在する、演出・トリミング・プリント・エディションの問題。タイトル・キャプション・レイアウトによって呼び込まれる外在的なコンテクストあるいは意味。被写体・撮影者の個人的な物語。しかしそれでもなお一枚の写真という存在。それらすべてを包含して写真はそこにある。
《佐賀コロニー》の内部を写した写真[図4]には、廊下に集う人々の視線が漂いながらわれわれまで届いてくる。いまならばプライバシーの問題から掲載は不可能であろうし、撮影許可すら下りないかも知れない。平山忠治の言うように、建物を撮影することが建物の全的な肯定を意味するのだとすれば★6、建物とともに写ることを許されたものと、写らなかったものがなんであったのか。建築写真を建築史・写真史双方へと開いていこうとするならば、問われるべき問いはまさにこれではないだろうか。
- 1──山田脩二《桜台コートビレジ》(内井昭蔵設計)
引用出典=『SD』71年3月号
2──山田脩二《岡山市立少年自然の家》(岡田新一設計)
引用出典=『SD』73年12月号
- 3,4──新建築写真部《県立佐賀コロニー》(第一工房設計)
引用出典=『新建築』73年10月号
建築+カメラ、フィクション
このような写真への建築家の反応はさまざまだ。大橋富夫の写真に対して「ぼくの建築が写っていない」と拒絶した丹下健三★1や、アプローチの石畳の質感にまで敏感に反応して見せる村野藤吾を一方の極に置くとすれば、思いもかけなかった発見に素直に驚き学んだ大江宏がもう一方におり、写真家の自由に任せながらも、みずからの見せたいアングルも指定する菊地大麓の折衷がそのあいだにある★2。「ぼくの建築」と建築家がいう時、建築家が期待するのははたして何か。鈴木了二は「ピントとは何か、被写界深度とは何か」という問いに対して、ためらわず「それは輪郭に対するカメラの忠誠、関数化された忠誠に他ならない」★3と答える(ただし、この問いは森山大道の『光と影』を掴まえるための迂路として立てられている)。「ぼくの建築」が写った写真を、建物の輪郭がすみずみまで把捉され、ふさわしいディテールが焦点化されていること、としてみよう。そして、もし人物が建築写真に入ることを嫌うとすれば、それは第一には写るべき建物への視線の焦点化を妨げるからであるとともに、見る者の意識を建築写真の焦点たるべき建築から逸らし、その人物が焦点を奪うからである。村井修が繰り返し語る写真表現の「一面性」の問題がそこにある★4。
たとえば石元の《子供の城》の写真[図5]では、カメラの視線は、建物よりも前景の子どもたちを焦点化し、建物は文字通り背景へと後退している。主役は子どもたちである。一般にわれわれの視線は、建物よりも、おのずと人物へと引き寄せられる。同時にそこには演出という要素が感覚されもする。シュルマンのように周到に人物がセットアップされた建築写真においては、演出とういう要素は看過されやすい。レアリズムとフィクションとの差異が顕在化するのは、むしろ「決定的瞬間」、ドキュメント、スナップとして撮影され、あるいは提示された写真である。写真史において「決定的瞬間」として膾炙してきた多くの写真で、演出というモメントが介入していたという事実が明るみになるたびスキャンダルとなってきた(ドワノー《パリ市庁舎前のキス》、あるいはカルティエ=ブレッソン《サン・ラザール駅裏におけるトリミング》。建築写真は、この問題に微妙なニュアンスを付け加える。というのも建築家は建築をなにかしら生活の、人生の、あるいは都市の舞台として設計するからであり、日常にせよ非日常にせよ、そこでの振舞はある種の舞台化のモメントをあらかじめ期待されているからだ。建築家にとって「ぼくの建築」は、その期待を担った、いわば幕の上がる前の誰もいない舞台なのであり、そこでの劇はひとつの予感として可能性の位相に保たれなくてはならない。そうでなければ建築写真は、「建築写真」として成立することと引き替えに、そこでありうるひとつの劇の可能性を示すイラストレーションとなるだろう。人物達は書き割り──というのが否定的に響くならば──活人画のなかの人物へと近づいていくだろう。シュルマンの人物の横顔やしぐさは、古代の壁画のレリーフに似る。そこにシュルマンの写真の古典性があると同時に、植田実が指摘するような「プレシオジテ」★5に堕する危険性もすでに胚胎されている。
建築写真への人の導入は、リアリズム写真・スナップ写真、そしてセットアップ写真、言い換えればドキュメンタリーとフィクションの境界を曖昧にする。建築写真固有のコードが揺らぎだす。人々のしぐさ、振舞、そして視線、あるいはそもそもその人がその場所にいることそれ自体が、また別の意志の存在を示しており、建築とは別の物語が紡がれる(ここで小津安二郎の「空ショット」が西洋のシネアストに与えた衝撃を喚起すべきだろうか。人物のいないショットに時間・物語は流れるのかという問い)。「ぼく」と「きみ」とのあいだに置かれたカメラという関数=機能(function)によって、現実のものでしかない建築がフィクションへと近づく瞬間がそこにある。
建築写真のはじまりへ向かって
佐々木健一は『タイトルの魔力』のなかで、絵画史におけるタブロー──額縁によって自立した平面──の成立と、作品の作者による命名の慣習化、そしてタイトルが額縁という絵画空間と現実空間との境界に刻まれることを指摘するとともに、通例、建築の名は、建築家自身が与える作品名とは異なる名(施設名あるいは所有者の名で呼ばれる)ことを指摘している。誰が建築を名づけるのか、という問題を脇に置いても、建築は芸術か工学かという磨り減った二項対立を提示する前に、そもそも建築をフレーミングするものは何か、と問うてみるべきだろう。今日、建築が写真に撮影されずに美学的ディスクールに上ることはありえない。写真が建築を美学的 ≒ フィクショナルなものとして提示する、その事実を端的に示すのが、建築写真のなかの人物だ。彼らによって、ある物語が建築の中に作動する。ひるがえって建築とは日常をフレーミングし、日常にフィクショナルなモメントを導入するための装置ではないのか。聖書の様々な挿話を彫刻された書物としての教会(ヴィクトル・ユゴー)の正面玄関と、生活を美学化する「市中之陰」たる茶室建築(堀口捨己)における躙り口は、ともに日常から非日常をフレーミングするための装置であり、教会と茶室は、ともにその光の効果によって、明るい部屋であり暗い部屋でもあるような建築の形式としてある。ここに至って、われわれは堀口捨己の「建築の非都市的なもの」で示され、観照というモメントを巡って額縁と対比される床の間という観照=緩衝装置、そして「構成」というプロブレマティックに戻らざるを得ないだろう。渡辺義雄や佐藤辰三、あるいは平山忠治との協働を通じて、日本における建築写真の確立に寄与した堀口は、『桂離宮』において一枚の写真にも執着した。堀口にとって写真集のため、みずからの作品集のための写真を決める行為は、茶室における窓や、庭に立てる石、あるいは床の間に活けられる花に劣らぬ「構成」という --「ぼくの建築」を超えた 彼方の -- 問題として認識されていたに違いない。いまこそ建築写真の歴史が書かれなくてはならない。
- 5──石元泰博《子供の城・ゆかり文化幼稚園》(丹下健三)
引用出典=『SD』67年8月号
たとえばフランスの場合──建築のような人々
建築写真が人との関係を結び直そうとしていたのが60年代後半の日本だとすれば、フランスではモード写真において人と都市とが新たな関係を築こうとしていた。たとえば森山大道が憧憬を隠さないウィリアム・クライン(William Klein)。PROVOKE同人を通じて「アレ・ブレ・ボケ」と定式化されることになる写真様式を示した『ニューヨーク』(1956)から続けざまに都市写真集を発表するのと同時に(『ローマ』1958、『モスクワ』1964、『東京』1964)、クラインは1954年から1966年までファッション雑誌『ヴォーグ』のカメラマンとしてモード写真の世界でも活躍した。クラインのモード写真は、モデルを外に連れだす。外光で撮ったことが歴史的なのでも意味があるのでもない。クラインのモデルたちは、オペラ座といったモニュメントを背景とし、また新しいモードを纏った彼女たち自身、モニュメンタルな存在としてそこにある。ともに1960年に撮影された、シモヌと水兵達によるパリ・アレクサンドル三世橋上の有名な写真。パリ・オペラ座の前で、顔を塗りつぶされたパパラッチ達に取り囲まれたイザベラの写真[図6]。また翌1961年には、モデルの写真が建物ファサードや都市風景に貼りつけられたシリーズが発表される。今橋映子が指摘するように「モデルが、書き割りに貼りつけられたマネキン人形のように、ポーズしたまま凍り」★7ついている。モード写真におけるモニュメンタリティの追求は、スタジオの中においても当然行なわれていた。ポートレート写真はもとより、肖像の正面性には、本来的にある種のモニュメンタルな次元が含まれている(ダゲール、アヴェドンと言わずとも絵画史から画家ダヴィッドを喚起すれば十分だろう)。
都市のなかの実在のモニュメントを後ろに従え、みずからの姿を誇示してみせるクラインのモデルたちのシルエットのなかには、写真家の巧まざるアイロニー(あるいはやぶれかぶれ)がこめられているように思える。先の今橋の指摘のように、クラインのモード写真は書き割り的だ。このような「書き割りのような」「マネキン人形のような」「凍りついた」モデルたちの真骨頂は、1963年パリのクレヴァン美術館=蝋人形館のなかで撮影されたシリーズにたどり着くだろう[図7]。この世俗のパンテオンに記念された歴史的人物の群れに飛び込んだモデルたちもまた、活人画のなかに列せられた人物として写真史のなかに記録されることになるだろう。
- 6──William Klein, ≪Isabella Albonico + Opéra et Mutants, Paris, 1960≫
引用出典=William Klein, catalogue d'exposition, Centre Pompidou/Marval, 2005.
- 7──William Klein, ≪Musée Grévin, Mickey et Antonia avec Picasso, René Clair, Ingrid Bergman, etc., 1963≫
引用出典=ibid.
つねにポレミカルであざといまでにスキャンダラスな写真を発表するベレッタ・ランの近作『薔薇、それはパリ』では、架空の物語に沿って、女性たちがシュールレアリスティックな都市の神話のなかの登場人物として撮影されている。パリのモニュメント群とともにレザースーツや奇矯な衣装を纏った女性たちがエロティックなイメージとして印画紙に定着されていく。この架空のシナリオの詳細とひとつひとつの写真とについては稿を譲らねばならないが、展覧会の最後に、都市のミニアチュールを冠に戴き虚ろに視線を上げるオードリー・マルネーのポートレートにわれわれは出会うだろう[図9]。パリを舞台にしたこの物語のなかで絶えず喚起されるキリスト教的なモチーフのなかでも、カテドラルのミニアチュールを抱く紺青の衣を纏ったマリア像に通底するこのイメージが、改めて都市と女性=教会(家)の象徴性を明らかにする。
- 8──Dominique Issermann, ≪Eva HERZIGOVA, NINA RICCI, New York, avril 1995≫
引用出典=série DI 101, Dominique Issermann , [sd]
9──Bettina Rheims, ≪Paris diademe Audrey Marnaym≫
引用出典=Chroniques, nº 53, Bibliothèque nationale de France, 2010.
ふたたび日本の場合──われわれのような建築そして都市
さて近年、ある種のモードともなっている建築写真へのわれわれの関心の理由はひとつには、これまでの厖大な建築写真の蓄積とそのアーカイブズへの興味があるとともに、建築専業写真家以外の写真家たちの建築写真・都市写真への参入があるだろう。とくに近年顕著な関心が認められる都市のパノラマ/俯瞰写真には、60年代のPROVOKEに代表される都市断片のスナップとはあきらかに異なる都市への態度が見てとれる★8。建築のなかの人々、建築のような人々の系譜を辿ってきたここで、改めてベッヒャーの《タイポロジー》から畠山直哉の《untitled 1989-》やホンマタカシの「Architectural Landscape」(2007)まで、これらは都市・建築の風景というよりもむしろポートレートであり、建築や都市をわれわれのように、というのが取り急ぎここでの仮説である。- 『建築雑誌』2010年7月号
特集=建築写真小史
(日本建築学会、2010)
2010年の日本における、われわれの建築写真への関心のたかまりには、大きく2つの理由が認められる。
ひとつは非建築写真家による建築写真の存在が挙げられよう。また日本における写真批評・写真史研究の成熟も忘れてはならない。第2には、これまでに撮影された厖大な建築写真の存在がある。近年のアーカイブズ全般への関心に触れ、建築界においてもこの資産に、文化資源としての価値を認める動きが現われてきている。
作家的な建築写真家たちには「建築・写真家」ではなく「写真家」だとの自負もあり、また建築写真の問題は写真一般の問題へと横滑りしていく。20世紀後半においてはベッヒャー・シューレをはじめとして、あるいはニエプス、時にタルボットの最初の写真もまた「建築写真」だった云々。ある人は建築と建築写真は異なると端的に言い切ってしまう。
それでも「建築写真」固有の問題は何か。建築と写真は、美学的・社会的にいかなる関係を結んでいるのか、写真において建築の何が開示されるのか。建築に向かう写真の可能性は何なのか。本特集の関心はそこにある。
しかし建築写真、とくに日本の戦後建築写真を紡ぐだけの、規範も記述もいまだわれわれは持ち合わせていないことも事実である。規範的に語るには記述に乏しく、また記述を駆動させるだけの規範的なディスクールもいまだ存在しない。本特集が、書かれるべき建築写真史へ向けてのひとつの端緒になればと思う。