日本〈現代〉建築家山脈

市川紘司(中国近現代建築史、東北大学大学院)

筆者はこれまで、『現代日本建築家列伝』(五十嵐太郎、河出書房新社、2011)などのなかで、日本の建築家を出身事務所・研究室をもとに結んで、それを年代順にならべて図式化する「建築家系譜図」をつくったことがある。建築家は、小説家のように自己の想像力を純粋に発露すればよいわけではなく、社会のさまざまな制度、制約のなかで、矛盾や不純を強いられながら「作品」を残していかねばならない職能と言える。そしてその作品は、事務所の所員らさまざまな協力者の手を借りることではじめて完成されるものだ。ここに建築家の多くが上下世代との師弟関係をもち、さまざまなかたちで手法や思想が継承される理由がある。

コンドルにはじまる建築家の連なり

村松貞次郎『日本建築家山脈』
(鹿島研究所出版会、1965)

日本の建築家の系譜をあらためて見返してみると、19世紀後半に来日し、東京大学(当時工部大学校)で教えたジョサイア・コンドルにはじまるその筋道が、途切れることなく現在まで地続きでつながっていることに素朴におどろく。たとえば、コンドルのもとで学んだ第一世代の建築家である辰野金吾から、内田祥三や岸田日出刀といった戦前のプロフェッサーアーキテクトが続き、さらにル・コルビュジエに多大な影響を受け、日本にモダニズムを根付かせるために格闘した前川國男、戦後に世界的な評価を獲得する丹下健三が輩出され、そしてその丹下の研究室からは、1960年代に建築と都市の有機的更新を企図するメタボリズムグループを結成する槇文彦や黒川紀章、あるいはその後のポストモダニズム建築を思想面でリードする磯崎新らが登場することになる......。村松貞次郎は『日本建築家山脈』(鹿島研究所出版会、1965)において、戦前における日本人建築家の系譜を「東大山脈」「京大山脈」といった具合にまとめ上げているが、なるほど、それぞれ強烈な個性を抱えた建築家が連なることで形成されるその歴史の流れは、まさに「山脈」のようにところどころで隆起し、またひだ状に拡散するという壮大な様相を呈するのである。

現代の「山脈」1──アトリエの系譜

現在という視点から見て、大きな「山脈」を形づくる建築家の系譜はどこにあるだろうか? いくつか取り上げてみよう。バブル以降、活躍する建築家を見渡してみたとき、大きな山脈となって見えるのが伊東豊雄をキーパーソンとする系譜である。伊東事務所の出身建築家には妹島和世がおり、そのあとには西沢立衛、石上純也が続くように、1990年代以降の日本建築をリードするアヴァンギャルドの系譜となっている。伊東の師匠はメタボリストの菊竹清訓であるから、その系譜は1960年代にまで遡ることができる。
菊竹事務所は多くの優れた建築家が巣立ったことで有名であったが、これは伊東事務所も同様である。曽我部昌史(みかんぐみ)やクライン・ダイサム、平田晃久などであるが、特筆すべきは彼らが各世代を代表する建築家であることだ。五十嵐太郎はかつて、周辺環境などの「状況」を重視しながら建築を思考する1960年代生まれの建築家と、逆に建築の形式性の強さや「原理」に着目する1970年代生まれの建築家を対比的に描き出したが、その代表選手には伊東事務所出身者もそれぞれ含まれている。また、伊東は構造のシミュレーション技術を援用することで《せんだいメディアテーク》(2001)など、2000年代に革新的な建築をつぎつぎと実現させていったが、末光弘和(SUEP.)は、光や風といった不可視の環境要素をシミュレーションによって建築デザインに取り込んでいる点が興味深い。最新の技術を用いながら建築を自然環境や身体の動きに近づけるという伊東の態度が、構造から環境にまで拡張されることで継承されている。
伊東を中心に形成される系譜と対比されるべきは、磯崎新を師とする建築家の系譜だろう。「伊東山脈」が建築において人間の身体性、あるいは環境的性質を重視する系譜であるとするならば、こちらの系譜は理論派と呼ぶべきか。建築家でありながら批評家や歴史家の役割も演じる磯崎は、建築の実作のみならず未実現の作品(アンビルド)や文章によって、20世紀後半の建築界をリードしてきた。その磯崎のもとからは、八束はじめを代表として、建築を理論的な枠組みから思考する建築家が輩出されている。青木淳もまた、磯崎アトリエ出身の建築家である。ただし、青木によって書かれる言葉は、建築空間やその設計方法についての厳密な追求でありながら、磯崎や八束らによる硬質なものとはやや異なり、表面上は「原っぱと遊園地」といったようなわかりやすさをもつ。ここにポストモダンやバブルの時代から2000年代にかけての言葉と建築のあり方の変化を見ることは可能だろう。デザインのうえでも青木の建築は最終的に可愛らしい表現が多く採用されており、理論にもとづいてつくられる建築がしばしば発する難解なイメージをもたない。
また、4年単位でスタッフが卒業するという独特のルールもあってか、青木の事務所からもトラフや永山祐子、中村竜治など多くの建築家が登場している。ただし、それは磯崎にはじまる「理論派」山脈の流れのなかにあるというよりも、商業施設のインテリアやアートの領域に広がる青木の活動を展開する方向に延びるものである。

現代の「山脈」2──大学の系譜

伊東と磯崎からはじまる系譜は、それぞれのアトリエに勤めた建築家たちによって形成されるため、出身大学が混在する。それとは対照的に、大学というひとつのまとまりのなかで建築家の系譜が醸成されているのが東京工業大学である。清家清から篠原一男、坂本一成、そして塚本由晴(アトリエ・ワン)と続く、おもに住宅建築の設計と研究のテーマとする系譜だ。一方、同じく大学をベースとしながら、東京大学の原広司研究室から生まれた系譜は対照的である。山本理顕や隈研吾、小嶋一浩(CAt)ら、活動領域や問題関心を異ならせながら活躍する、さまざまなタイプの建築家が多数連なる系譜となっている。隈のもとからは中村拓志や藤原徹平らが独立し活躍しているが、その事務所規模はアトリエ建築家としては国内で最大規模のものであり、今後も多くの弟子筋が続いていくことが期待される。山本と小嶋はそれぞれ従来の日本の建築教育とは異なるプログラムを採用する横浜国立大学のY-GSA(Yokohama Graduate School of Architecture)で教えており、原広司の系譜はさらに拡散的に延長されていくのだと思われる。

山脈と孤山の共存

もちろん、具体的な師弟関係に沿うかたちで建築家の系譜図を整理しようと試みたところで、どの系譜にも位置づけられない建築家もまた多い。元プロボクサーという経歴を持ち、大学での建築の専門教育を受けずに独学で建築を学んだ安藤忠雄は、そうした建築家の代表だろう。スペインの建築雑誌『EL CROQUIS』にいち早く紹介されるなど、国際的な評価を獲得しつつある藤本壮介もまた師匠を持たない建築家である。阿部仁史など、国外で建築を学んだ留学組も、東京一極中心の日本の建築家系譜図には収まり切らないという点では同様だ。また、よくよく見てみれば、これまで築かれてきた大きな建築家山脈のほぼすべては、東京を拠点とする建築家たちによって形成されたものであることがわかる。建築家同士の独特のネットワークがある関西や、端正なモダニズムを実践する小川晋一らが活躍する広島などのように、豊かな系譜を描くことのできる地域が今後増えていくことを期待したい。
1960、70年代から2010年代の現在にいたるまで40-50年続く山脈とともに、そこからは距離をとった単独でそそり立つ孤山が共存するようにして、日本現代建築の世界は形成されている。そうやって建築の手法と思想が着々とストックされ、継承されてきたことによって、日本建築の充実は生まれていると言えるだろう。2014年のプリツカー賞を磯崎アトリエ出身の坂茂が受賞したが、2010年のSANAA(妹島和世+西沢立衛)、2013年の伊東豊雄を合わせれば、ここ5年のうちのじつに三度が日本の建築家による受賞となる。過去の受賞者である丹下健三、槇文彦、安藤忠雄を含めれば6名となり、これは最多の8名の受賞建築家をもつアメリカに肉薄する数字である。

山脈か海原か──系譜の継承と断絶

槇文彦『漂うモダニズム』
(左右社、2013)

以上のように、連綿とつながる日本の建築家山脈の実りの豊かさを前にすると、筆者が専門としている中国の近現代建築史との異なりを強烈に感じざるをえない。非西洋の国家として、近代化の道を歩むなかで「建築」という学問を輸入したことは、両国同様であった。中国の第一世代の建築家は1920年代にペンシルバニア大学で学んだ梁思成らである。そこから自国の建築史が書かれ、また西洋の古典主義、あるいはモダニズムと自国の伝統建築をいかに共存させるかといった、意匠上のテーマが浮上する。それは日本の近代建築史とまったく同じ流れだろう。
にもかかわらず、一方は20世紀後半には世界的な評価を獲得する建築家を多数輩出し、もう一方はそれとは対照的に長らく建築家不作の土壌となる。この二者のちがいは、やはり、1945年に「敗戦」という巨大な出来事が差し挟まれながらも日本では建築家の系譜が脈々と続いたこと、そして逆に中国では、1949年における社会主義国家の建国、そして文化大革命などの長期的な混乱によって、系譜に決定的な断絶が入ってしまったことに求められる。断絶は「改革開放」に舵を切る1978年まで、あるいは個人の建築アトリエが認められた1990年代後半まで続く長いものであった。それゆえ、民間で建築事務所を営むことのできた20世紀前半の建築家たちと、2012年に中国人としてはじめてプリツカー賞を受賞した王澍をはじめとする現代の建築家を系譜図として結ぶことは、ほとんど不可能となっている。21世紀に入ってからぞくぞくと登場をはじめた中国人建築家たちは、所属する系譜をもたないのだ。それゆえ、彼らは過去の建築にとらわれることなく、そのほぼすべてが国外留学組というバックグラウンドを活かし、非常に自由に活動を展開している。建築家の活動自体がいままさに再起動されたばかりであるから、あらたな山脈もまだ形成されるには至っていない。
こうした中国現代建築の風景を、山脈から成る日本のそれと対比的に述べるならば、それは槇文彦が描いたような「一捜の船」なきあとの広大な海原であろう。そこには議論の共通の土台となる規範=「船」がない代わりに、各々が自由に建築を実践する現在的な「勝手さ」がある。しかし今後、次世代の建築家たちの動きが活発化したときには、どのような中国建築家山脈が築かれるのか? そしてそれが日本とはどのように異なる相貌を示すのか、日中両国の現代建築史を考えるうえで興味深いところである。


いちかわ・こうじ
1985年東京都生まれ。中国近現代建築史。東北大学大学院工学研究科都市建築学専攻博士後期課程。2013年から中国政府留学生(高級進修生)として清華大学に留学。著書=『ねもはEXTRA 中国当代建築 北京オリンピック、上海万博以後』(編著、フリックスタジオ、2014)、『中国的建築処世術』(共編著、彰国社、2014)。


201404

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