明治大学 南後由和ゼミナール
ゼミの体制と指針
私が所属している明治大学情報コミュニケーション学部は、社会科学を中心とした学際的な学部教育を行なっている。情報コミュニケーション学部には、学生が在籍する研究室という枠組みはなく、週1回のゼミナール──学生が自主的に運営しているサブゼミを入れると週2回──という運営体制を採っている。南後ゼミ(2012年度〜)の学生数は、学部3年生と4年生がそれぞれ約15名ずつ。現在のところ大学院生や研究員はおらず、学生が共同研究やプロジェクトに日々従事するための部屋があるわけでもないという点では、建築系の研究室とは異なる。
3年生のうちに各自が卒業論文に向けた研究テーマを決めてリサーチを進め、4年生では卒論の執筆に取り組む。教員から卒論の研究テーマを指定したことはない。各自の問題関心にもとづき、学生が自主的に研究テーマを決めている。というのも、大学入学後もレポート課題など、与えられた問いに対していかに効率よく答えるかの訓練ばかりで、自分で問題を発見し、問いを立て、それらを深く広く掘り下げていく機会は、(多くの文系学生にとって)卒論が最初で最後になるかもしれない貴重な機会であると考えているからだ。
ゼミの研究テーマには、「東京から◯◯を研究する」という緩やかで間口の広い括りを設定し、各自が社会学を軸とした「都市論」をベースに卒論を仕上げる。都市・建築をめぐる経験が、空間それ自体と同時に種々のメディアによっても、共時的かつ通時的に媒介されていることに着目しながら、空間と社会の関係を考察し、そうした経験を領域横断的に読み解き、記述していくことをゼミの指針としている。これまでの卒論のテーマは、CSR/CSV、デジタルサイネージ、観光、大学キャンパス、地場産業、新しい公共、路地、コンパクトシティ、保育所、競馬場、インフォグラフィックス、渋谷・臨海副都心の再開発、レトロ、郊外、企業の文化事業、時間消費型商業施設、ファッション、坂、サッカー、かわいい、映画、音楽、地図、写真など多岐にわたる。
文献輪読リスト
ゼミ生は1、2年生のうちに都市論に関する授業を履修してきたわけではないので、3年生前期の前半は、おもに都市論に関する基礎を養うための文献輪読に時間を充てている。後半は、年度ごとの学生の研究関心に合わせて、毎年輪読する本を変えている。
また文献輪読とは別に、3年生の1年間だけ、各自の研究テーマに関連した「読書リスト100冊」を前期25冊×2回、後期25冊×2回に分けて提出させている。100冊には論文を含めてもよく、必ずしも最初から最後まで通読する必要はない。読書リストとは、100冊の書誌情報と卒論への関連度を4段階でチェックしたものである。
学部生は大学院生や研究者と違い、専門分野の先行研究の蓄積や領域間の関係性が描かれた「地図」が頭のなかにあるわけではない。当該テーマの研究を進めていくうえで、古典となる文献や押さえておくべき必読文献がなにかがわかっていないことも多い。そのため、定期的に読書リストを教員がチェックすることで、読むべき文献が抜け落ちている場合には適宜指示することができ、どのような道筋で学生が研究を進めているかを履歴として把握することもできる。「量は質を凌駕する」ということで、習慣として本を読む癖をつけ、速読と精読の使い分けができるようになってもらいたいという意図もある。3年生のうちに卒論に関する文献を100冊以上読めば、当該テーマに関する一定の基礎文献を狩猟したといえ、4年生ではその「地図」をもとに、自力で船出できるようになると考えている。学生それぞれがカルトグラファー(地図製作者)であり、読書リストは、研究を進めていきながら書き替え、アップデート可能な「地図」といえる。
さて、「研究室の必読書」がお題なので、南後ゼミの3年生前期の文献輪読について詳述しておきたい。1学年約15名という人数の多さは、1人当たりに割ける時間が短くなるというデメリットもあるが、文献を読み進めていく量を増やし、速度を上げることができるというメリットもある。そのメリットを生かし、南後ゼミでは、毎週1冊の文献をグループ・ワークで読み進めている。具体的には、1)テキストの要約、2)他の事例紹介、3)考察(関連・発展させて考えたこと、異論・反論、疑問点など)、4)ディスカッションのテーマ、5)参考文献リストまとめたレジュメをグループごとに作成し、ゼミで発表、ディスカッションするという形式をとっている。
たとえば、2014年度の3年生前期の文献輪読リストは、下記のとおりである。
○多木浩二『都市の政治学』(岩波新書、1994)
○別冊宝島『わかりたいあなたのための社会学・入門』(宝島社、1993)
○若林幹夫『都市論を学ぶための12冊』(弘文堂、2014)
○市川宏雄+久保隆行+森記念財団都市戦略研究所『東京の未来戦略──大変貌する世界最大の都市圏』東洋経済新報社(東洋経済新報社、2012)
○北田暁大『増補 広告都市・東京──その誕生と死』(ちくま学芸文庫、2011/単行本2002)
○『無印都市の社会学──どこにでもある日常空間をフィールドワークする』(近森高明+工藤保則編、法律文化社、2013)
○五十嵐太郎『現代建築に関する16章──空間、時間、そして世界』(講談社現代新書、2006)
○並木誠士+中川理『美術館の可能性』(学芸出版社、2006)
○Cowen, Tyler, Creative Destruction, Princeton University Press, 2002.(『創造的破壊──グローバル文化経済学とコンテンツ産業』浜野志保訳、田中秀臣監訳、作品社、2011)
○Urry, John, The Tourist Gaze: Leisure and Travel in Contemporary Societies, Sage Publications, 1990.(『観光のまなざし──現代社会におけるレジャーと旅行』加太宏訳、法政大学出版局、1995)
アンリ・ルフェーヴルやシチュアシオニストに関する文献もゼミで輪読したいところだが、それらに関してはゼミではなく、講義で概説している。ここでは、2014年度に引き続き、2015年度も輪読する予定にしている下記の3冊についてコメントしておきたい。
選書コメント
多木浩二『都市の政治学』(岩波新書、1994)
- 多木浩二
『都市の政治学』
(岩波新書、1994)
例年、文献輪読の1冊目に指定している本である。本書で扱われている事例には、ショッピング・モール、コンビニ、テーマ・パーク、郊外、空港など、現在でも興味深いものが並んでいる。しかし、それら個別の事象について知るということが選書理由ではない。
むしろ、情報化やグローバリゼーションというドラスティックな変化の只中において、明確な輪郭をもつ概念としては語れないものでありつつも、「都市」と呼ばざるを得ない事象と対峙しながら言葉を紡ぎ出そうとする、多木の姿勢から多くのことを学んでもらいたい。それは、私たちが日常を生き、そこに含み込まれている都市、空間的形態であると同時に、人間の集合形態や生活技法という社会的形態でもある都市について粘り強く考え抜くことでもある。
多木浩二は、「歴史意識を介して、変容する都市の、さまざまな力の関係を考察すること」(12頁)を、「都市の政治学」と呼んだ。「とるに足りない日常性の破片のなかに、われわれの見知らぬ夢が宿り、そこにはまだ気づかないでいる次の時代が、かたちもない胎児の状態で含まれているかもしれないのである」(6頁)。このベンヤミンを彷彿させる記述にも見られるように、本書では、私たちの日常生活の細部に政治・経済・文化をめぐる諸力がどう刻印されているかを問うとともに、都市の「現在」をさまざまな時間的、空間的スケールが地層をなして形づくられたものとして捉えようとする、モノの見方が示されている。
本書を皮切りに、建築、写真、デザインなどを領域横断的に論じた多木の著作群にも触れてもらいたい。
若林幹夫『都市論を学ぶための12冊』(弘文堂、2014)
- 若林幹夫
『都市論を学ぶための
12冊』(弘文堂、2014)
タイトルにあるとおり、本書は都市論のガイドブックである。取り上げられている本は、下記の12冊。『東京──大都会の顔』(岩波書店編集部編+清水幾太郎監修、岩波書店、1952)、ルイス・マンフォード『歴史の都市 明日の都市』(生田勉訳、新潮社、1969)、大室幹雄『劇場都市──古代中国の世界像』(三省堂、1981)、『定本 柳田國男集 第16巻』(筑摩書房、1969)、マックス・ヴェーバー『都市の類型学』(世良晃志郎訳、創文社、1964)、『都市社会学セレクション第1巻 近代アーバニズム』(松本康編、日本評論社、2011)、ルイ・シュヴァリエ『労働階級と危険な階級──19世紀前半のパリ』(喜安朗+木下賢一+相良匡俊訳、みすず書房、1993)、フランソワーズ・ショエ『近代都市──19世紀のプランニング』(彦坂裕訳、井上書院、1983)、吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー──東京・盛り場の社会史』(弘文堂、1987)、デヴィッド・ハーヴェイ『ポストモダニティの条件』(吉原直樹監訳、青木書店、1999)、レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』(鈴木圭介訳、筑摩書房、1995)、『東京スタディーズ』(吉見俊哉+若林幹夫編著、紀伊國屋書店、2005)。
ゼミでは、シカゴ学派に由来する狭義の「都市社会学」ではなく、建築学、地理学、メディア論、デザインなどを横断する「都市論」の研究=教育を展開している。そのため、選書理由には、本書で取り上げられている12冊を通して、まずは都市論の広がりを実感してもらいたいという狙いがある。
本書のようなガイドブックを文献輪読の対象にすることは邪道と受け取られるかもしれない。実際、私自身が学部生のころの文献輪読を振り返ってみると、たとえばマックス・ヴェーバー『経済と社会』、エミール・デュルケーム『自殺論』、ゲオルク・ジンメル『社会学』などの古典を半期で1冊ずつ読むという形式であった。しかし、著者である社会学者の若林幹夫が、たんなる本の内容紹介というよりは、「それらの本をどのように読むことが出来るのかという私なりの読み方を示し、そうした読みから見いだされる都市論の課題と可能性を示すことに主眼」(2-3頁)を置いたと指摘しているように、本の事実的な内容把握にとどまらず、都市をめぐる経験の記述の一環として、都市論の本を読む経験を記述する手つきを学び取ってもらいたいと考え、本書を文献輪読の本にリストアップしている。なお、当然ではあるが、若林の読みを導きの糸として、学生にはそれぞれの章で取り上げられている本に実際に当たるよう指示している。
北田暁大『増補 広告都市・東京──その誕生と死』
(ちくま学芸文庫、2011/単行本2002)
- 北田暁大
『増補 広告都市・東京』
(ちくま学芸文庫、2011)
本書には、インターネットやケータイの普及にともなう都市経験の変化について、〈ポスト80年代〉の渋谷を対象に考察した記述がある。渋谷パルコと公園通りに代表されるような舞台装置としての空間演出は、90年代のメディア環境の変化にともなう「見流される」態度によって機能不全に陥ることで「脱舞台化」し、渋谷は相対的に商品や店舗の多い「情報アーカイブ」にすぎなくなって位置価を下げたと。
本書は、吉見俊哉の『都市のドラマトゥルギー』を批判的に継承しつつ、2000年代前半に単行本として刊行された。ゼミでは『都市のドラマトゥルギー』と『広告都市・東京』を批判的に継承しつつ、2000年代後半から2010年代にかけてのスマートフォンやSNSの普及による「つながりの社会性の浮上」と「空間の脱舞台化」が、都市の現在において、どのように新たな関係性を取り結んでいるかを議論している。
たとえば、代官山蔦屋書店、タワーレコード、ショッピング・モールのような時間消費型商業施設のフィールドワークをする一方で、サッカー日本代表戦やハロウィン時の渋谷スクランブル交差点に見られる「空間の再舞台化」の現象や海外観光客からみた渋谷の位置価などについて考察している。
さて、冒頭に「建築系の研究室とは異なる」と前置きしたが、南後ゼミは、ゼミナールと研究室の中間を模索している。「ゼミナール」という言葉の起源としては、19世紀ドイツのベルリン・フンボルト大学(創立時の名称はフリードリヒ・ヴィルヘルム大学)設立に寄与したフンボルトの業績がしばしば参照される。ベルリン・フンボルト大学は、従来の専門職業教育志向ではなく、教養志向の大学として登場した。なかでもフンボルト式のゼミナールは、少人数選抜制で研究と教育の一致を理念としていた。日本のマンモス私大の文系ゼミナールの多くは、少人数選抜制ではなくマス教育、研究と教育の一致ではなく分離が目立ち、教育に比重が置かれがちである。しかし、ゼミとはすでに定まった知を伝達する教育の場ではなく、まだ明らかにされていない知を教員と学生がともに探究する実験的な研究=教育の場にほかならない。
卒論も教員と学生および学生同士の協働の成果であり、教員もそのプロセスにおいて学生とともに考え、学ぶことが多いのも確かだが、今後は研究室化を図り、ゼミ内プロジェクトの展開や他大学・企業との共同研究にもより一層力を入れていきたい。今回の特集である「研究室の必読書」に託つけていえば、まずはゼミの必読書ガイドブックをつくることをゼミ内プロジェクトとして立ち上げてみようかと考えている。