独立した美術・批評の場を創出するために

五十嵐太郎(東北大学教授、建築史、建築批評)+鷲田めるろ(キュレーター)

ビルバオの衝撃から芸術祭まで

編集──五十嵐太郎さんと鷲田めるろさんには、雑誌時代から「10+1」において美術や建築をめぐるさまざまな議論を展開していただきました。最終号の本対談では美術と建築のあり方を総括していただき、今後の展望についてお話を伺いたいと思います。まずは「10+1」が活動してきた26年の間における美術、建築の動向についてお聞かせください。

鷲田めるろ氏

鷲田めるろ──よろしくお願いします。私は約20年前の1999年に建設事務局学芸員として、《金沢21世紀美術館》(2004)の立ち上げに携わりました。当時は《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》(1997)が、後に「ビルバオ効果」と呼称されるまでの社会現象を巻き起こしていたのを覚えています。かつて工業都市として発展したビルバオは、1980年代から90年代にかけて産業が衰退の一途をたどっていました。そうしたなかで《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》のオープンを契機として、ビルバオは観光客の誘致や都市再生に成功したのです。その衝撃はとても大きかったですね。当時の私たちにとっても、新しくつくる現代美術館と地方都市のまちづくりをいかに結びつけていくかというのは大きな課題でしたから。その後、それまで社会と切り離されていた美術や建築を開き、社会に接続していこうという意識は各地で徐々に定着し、さまざまな試みがなされ、成果も上がってきていると思います。

しかし一方で、美術や美術館が社会に開かれていった結果、新たに別の課題も生まれてきています。具体的に言えば、美術が社会に過度に開かれすぎたとき、共通の議論の土台をいかに確保するかという課題。あるいは、ぱっと見てわかりやすく、単純に写真映えする作品が注目される傾向についてどのように考えるのか、といった課題です。キュレーターとして関わった2019年の〈あいちトリエンナーレ〉を経て、それを強く実感しました。今の時代はSNSが頻繁に利用され、美術館においても「観光」が重視されるようになりつつあります。その結果、美術館や展覧会において言論や表現の自由は守られるべきだ、という基本的な共通認識がなくなりつつあるという大きな課題に直面しています。

五十嵐太郎氏

五十嵐太郎──よろしくお願いします。鷲田さんのお話にもありましたが、フランク・O・ゲーリーによる《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》は社会的にはもちろん、建築業界にも大きなインパクトを与えました。設計や施工においても、当時の最新のデジタル・テクノロジーを採用し、20世紀最後の重要なメルクマールになった。そして21世紀になると、ビルバオに続くように、スター建築家の設計による大型美術館が世界各地に建てられ、それが観光やツーリズムとも結びついていきました。日本では、やはり《金沢21世紀美術館》のインパクトは非常に大きかったと思います。海外旅行先では《ルーヴル美術館》や《大英博物館》に行くけれど、普段は美術館・博物館へはまったく行かないという人が日本には圧倒的に多い。《金沢21世紀美術館》はそうした状況を大きく変えたのではないでしょうか。また、それまで美術館といえば都心から離れた丘の上の神殿のような存在でしたが、《金沢21世紀美術館》の成功が、美術館を街の中心地に置く流れをつくったように思います。

そしてこの10年ほどの間、日本各地に芸術祭が急激に増加しましたね。建築側から見ていて興味深いのは、建築家もアーティストと一緒に芸術祭に参加することが普通になったことです。今の学生たちにとっては違和感がないかもことしれませんが、私が学生の頃には見たこのとない風景でした。美術館でも建築をテーマとした展示が増えましたし、建築と美術が同じ場を共有するようになった印象を受けました。そこで特に共通のプラットフォームになったのが、リノベーションです。そこに何かを新築するよりも、既存の建築を活かすというプロジェクトであれば、アーティストや地域の人も参加しやすい。リノベーション自体も、21世紀になってから建築家が数多く手掛けるようになったジャンルです。かつて建築家は、リノベーションを新築より軽視している傾向がありましたが、バブル崩壊後に登場した建築家は、むしろリノベーションも重要なプロジェクトとしてみなすようになりました。

鷲田──そうだと思いますね。その10年の間、日本では国内経済が停滞し、建築をどんどん建てようという流れはありませんでした。同時に美術界隈でも、美術館を維持するよりランニング・コストを抑えられる芸術祭のような手法が求められました。そうして〈横浜トリエンナーレ〉や〈あいちトリエンナーレ〉など都市型の芸術祭はもちろん、今後人口の減りそうな地域を開催地とする芸術祭も登場するようになったのです。その結果として、建築家が地域と関わりながら作品をつくりあげていくプロジェクトも増加し、建築家の役割も建築以外の活動へと広がっていきました。美術でも、開催地を事前にリサーチし、その地域の地理や文化や歴史を意識した作品を制作することが増えました。こうした取り組みはこれからも必要ですし、意義深いことだと思っています。

五十嵐──それに加えて私は、海外で起こっていることと日本で起こっていることの乖離があまりに大きいことが気になっています。例えば日本の美術館建築では、海外のような「アイコン建築」化の動きは忌避されている。それは日本の独特な現象のようであり興味深いのですが、近年海外がナショナル・ギャラリーの建設や運営に非常に注力し、広大な空間を確保しているにもかかわらず、日本はそうではない。《東京国立近代美術館》は、現在の水準から見ると、狭く感じられるんです。美術にとっては、ある程度巨大な展示空間が必要だと思うのですが。また、日本に近代建築史のナショナル・ミュージアムのような、国が歴史観を示している場所がないことも問題だと感じています。そうした話と表裏一体で、日本には大型の作品をつくることができるアーティストが少ないと感じています。名和晃平さんやヤノベケンジさん、草間彌生さんら以外にはなかなか思い浮かばない。大型の作品を求められる機会や、展示する場も減っているのかもしれません。大きな作品よりも、細かなアーカイブ的作品の制作や展示に向かっているアーティストも多いですね。一方で上海では巨大な展示空間が数多く建設されています。現時点では、正直なところ箱ばかりが充実していてコンテンツは未成熟だという印象ですが、今後アーティストが育っていけば、こうした空間があることが、中国のアートシーンの背中を押す可能性が大いにあるのではないでしょうか。

鷲田──たしかに香港やシンガポールでは、東南アジアの歴史を描こうとする巨大な展示空間の整備が国をあげて進められ、文化が経済を引っ張っていくモデルが構築されつつあります。その点で日本と大きな差がついていますね。《ナショナル・ギャラリー・シンガポール》はアジア最大級の近現代美術館ですし、香港では西九龍地区が芸術エリアとして開発され、そのなかで巨大な現代美術館《M+》(エムプラス)が2020年末の開館を目指して建てられています。また、田根剛さんが設計した《エストニア国立博物館》(2016)は、歴史を語るという国立博物館としての役割を、展示のコンテンツだけでなく建築の形態からも表現している点で高く評価しています。エストニアは歴史の新しい国家ですが、このような国立博物館の建設を掲げ、設計を外国の若い建築家に任せたわけですよね。そして旧ソ連の軍用滑走路であった場所を敷地とし、エストニアの負の歴史と建築をつないでいる。大きな課題に対面しながら博物館を具現化したことに対し、とても感銘を受けました。こうしたさまざまなストーリーを建築物の造形で統括し描きあげるということは、本来、建築家の最も大きな夢であるはずです。しかし日本においては建築家にとってそうした建築をつくることが難しい状況になっているように思います。

土地、歴史に根付いた固有性を創出する地方の美術館

編集──ありがとうございます。世界的には国が先導して大きな美術館を構築する流れがある。日本においても、2018年5月に政府案として報道された「リーディング・ミュージアム(先進美術館)構想」を機に、これからの美術館のあり方が活発に議論されているかと思います。収蔵や展示といった美術館のかつての責務が拡張し、経済的な活用をより強く求める動きが大きくなりつつあると言えるでしょうか。

鷲田──そうですね、美術館関係者の界隈でも、制度設計については議論がされています。これまでは、展示施設でよかったものが、その存在意義や経営面について改めて問われるようになりました。その結果、カフェやショップなどのサービスや地域、学校との連携がさらに重要になってきました。今後も既存の制度を点検していく必要はあるでしょう。

《金沢21世紀美術館》の場合は、美術館の成り立ち自体が、「中心市街地の再活性化」という経済的、都市政策的な目的をもっています。「新しい文化の創造」という、一見、文化政策に見えるミッションも、繊維産業から自動車産業への転換が行われず、地域経済を牽引していく強い産業を持たない金沢において、文化と観光によって経済を引っ張ってゆこうという政策だと解釈することもできます。地方自治体の税収が減ってゆくなか、経済効果を産まない公立美術館は維持できないという状況が迫りつつあります。

五十嵐──地方の小さい美術館などは、ゴッホやピカソの絵を持ってくるような巡回展もできないし、どうしても特殊な変化をせざるをえないように感じます。例えば、《十和田市現代美術館》(2008)は最初から各展示室を独立配置して常設作品を固定し、企画展を行うスペースをかなり小さく計画しています。これは企画・運営を担うN&Aがこの先抜けた後でも、美術館自体のアイデンティティが変わらないようにしたいという意図や、頻繁に企画展を行えないという地方の事情があると考えらます。《太田市美術館・図書館》(2017)も、いわゆる文学館で扱うような地域資料を、アート作品に織り交ぜて展示していますよね。同様に《アーツ前橋》(2013)では、萩原朔太郎という地域ゆかりの作家やその文脈を活かすべく、積極的に《萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち前橋文学館》(1993)と連携して企画展を同時開催しています。要するに、ただアートを扱うだけではなく、地域資料をアートの目をもって掘り起こすようなことをしてるんですよね。各地の美術館も、こうしたいろいろな個性や独自性の創出に努めているように感じます。

第4世代の美術館──ラフさを纏った空間と批評メディアとしての展覧会

編集──以前、「10+1 website」で五十嵐さんと村田麻里子さんに「第3世代美術館のその先へ」というテーマでご対談いただきました★1。その後、日本大学の佐藤慎也さんが同様のテーマを「第4世代の美術館の可能性」として論じています★2

もともと「第○世代美術館」という言葉は、磯崎新さんが《奈義町現代美術館》(1994)を設計する際に提示されたもので、第1から第3世代の美術館の特徴を論じられた。佐藤さんは、それを現代において捉え直し、リノベーションによる美術館を第3世代として、第4世代の美術館は「人」が含み込まれた作品のための美術館ではないか、と提案しています。明らかに美術館は違うフェーズに入ってきていますが、次なる「第4世代の美術館」とはどのようなものだと考えられるでしょうか。

鷲田──まず第3世代について、海外でもリノベーションによる美術館がありますが、個人的にはロンドン《テート・モダン》(2000)よりも、同時期に開館したパリの《パレ・ド・トーキョー》(2002)のほうがインパクトが強かった。《テート・モダン》は発電所のリノベーションですが、比較的きれいに改修されています。一方、《パレ・ド・トーキョー》は、ナショナルなアートセンターでありながら、空間自体はほとんど工場の廃墟同然というか、どこまでが改修中で、どこからが改修済みかがわからないような仕上げに留められていました。こんな場所でもアートの展示ができるのか、と衝撃を受けたのです。もう新しく美術館をつくらなくても、街の空いているスペースに展示していけばいいじゃないか、とさえ思えた。

五十嵐──《パレ・ド・トーキョー》は驚くくらいに格好良かったですよね。日本だと、たとえリノベーションであっても、どうしてもきれいに仕上げてしまいますから。もともと《パレ・ド・トーキョー》は、1937年のパリ万国博覧会に合わせて用意された展示施設で、地下にも広大な空間があり、迫力のある建物でした。パリ万博当時の近代美術においては、そこまで大きな空間は必要なかったと思うのですが、時を経た現在では、アートのサイズが巨大化しているので、ちょうど良い大きさのように感じます。最初から第2世代の美術館のようにホワイトキューブで構築すると、どうしても機能的に無駄がない、ぴったりのサイズになるけど、アート作品そのものが変化すると対応しづらい。もちろん坂倉準三さんによる《神奈川県立近代美術館》(1951)などは、今見ればとても可愛らしい小さな建築で、それも魅力的ではある。けれど、機能性や適切な大きさを無視してつくった建築や、工場や倉庫を含む1930年代の展示空間が今再生すると、不思議と現代の展示物に非常に合うんですよ。鷲田さんがおっしゃるように、リノベーションしすぎないラフさのようなものも、今の空気にはすごく合っていると思います。田根剛さんが設計されている《弘前れんが倉庫美術館》にも、そうした感覚でリノベーションすることを期待しています。

鷲田──《弘前れんが倉庫美術館》が、まだ改修前の《吉野町煉瓦倉庫》だった頃に、奈良美智さんの展示を見に行きましたが、《パレ・ド・トーキョー》で感じたようなラフさを体感することができ、非常に良かった。また、市民がつくった展覧会だったという点でも面白かったです。

五十嵐──結局第4世代の美術館がどのようなものなのかはまだ形として見えてきませんが、先ほども挙げたように、国をあげて大きな美術館をひとつつくることが必要ではないかと思います。そして地方は地方だからこそできる、東京とは違うことをやっていってほしい。そして、東京は東京でしかできないことをしてほしいと思うのですが、難しいですね。鷲田さんと《金沢21世紀美術館》で「3.11以後の建築」展を企画したときに、図らずもセレクションに東京のプロジェクトがほとんどないことに気づきました。入っていたのは、日建設計の《ソニーシティ大崎(現NBF大崎ビル)》(2011)と、岡啓輔さんの《蟻鱒鳶ル》(2005-)だけだった。実際震災以降、東京よりも地方に面白い建築がつくられているように思います。「グッドデザイン賞」の審査などを通してもそのように感じることが多い。また、『日経アーキテクチュア』(日経BP社)が「平成の10大建築」というランキングを発表した際も、1位が《せんだいメディアテーク》、2位が《金沢21世紀美術館》と続き、東京で唯一ランクインしたのは、《東京駅》のドームの復元でした。明治や昭和の時代の建築でランキングを作成すれば、おそらく半分以上が東京の建築になると思いますが、平成は地方の建築に意欲的なものが増えた時代だったのだろうと思いましたね。逆に、ザハ・ハディドの《新国立競技場》をめぐる一連の問題を考えてもそうですが、東京では思い切ったプロジェクトが生まれにくいのではないかと言えるかもしれない。

《新国立競技場》の話を延長しますと、2019年2月に《埼玉県立近代美術館》での展示を皮切りに巡回している〈インポッシブル・アーキテクチャー〉展も、構想の決定打になったのはザハの《新国立競技場》のプロジェクトがキャンセルされたことでした。そうした背景から、この展覧会は2020年まで続けたいと思っていましたが、無事続けることができました。この展覧会では、最後にザハ+設計JVによる《新国立競技場》案が展示されています。一度は採用され、実施設計まで完了し実現されるはずだったにもかかわらず、日本側が一方的に棄却した。そしてザハの死が重なったことで「インポッシブル」になってしまった建築です。本当は「インポッシブル」ではなかったことを示す構成になっています。とある外国人記者が「この展覧会は、国家の決定に抵抗する地方の展覧会である」といったレビューを寄せくれました。これが、展覧会が批評メディアとしての機能を持つことができると感じさせられた、印象的なレビューだったんですよ。実際に、紙媒体でもウェブ媒体でも批評の場が減ってきている。建築の専門誌が、この《新国立競技場》の問題を完全にスルーしたことも非常に問題だと思っています。要するに、何十年後かにこの問題について調べようと業界紙をあたっても、そこには当時の状況が掲載されていないことになる。〈インポッシブル・アーキテクチャー〉展ではこの問題についてしっかり記録し、今後本展は歴史資料にもなり得ると自負しています。批評の場が減少する時代において、展覧会が批評メディア的な存在になりうると強く感じました。


  1. ビルバオの衝撃から芸術祭まで/土地、歴史に根付いた固有性を創出する地方の美術館/第4世代の美術館──ラフさを纏った空間と批評メディアとしての展覧会
  2. 街なかアート・プロジェクトの展望/〈あいちトリエンナーレ 2019〉──文化はいかに独立性を保てるか

202003

特集 [最終号]建築・都市、そして言論・批評の未来


独立した美術・批評の場を創出するために
いまこそ「トランスディシプリナリティ」の実践としてのメディアを ──経験知、生活知の統合をめざして
リサーチとデザイン ──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る