震災報告。仙台から

五十嵐太郎(建築史)+本江正茂(都市デザイン)

3.11当日

本江正茂──3.11は東京からの出張の帰りで仙台駅にいました。駅ビルの地下の蕎麦屋で揺れが来て、これは大きいと思ったらなかなか治まらない。さらにもう1回大きく揺れて、さすがにあのときは生まれて初めて地震で死ぬと思いました。地下だったので比較的揺れなかったはずなんですが、それでも恐怖をおぼえるには十分でした。すぐ電気も消え、非常用電源がついた。蕎麦屋の主人が気丈でずっと立って客に「落ち着いてください」と言い続けていました。揺れがおさまって、客がお金を払おうとするのを、主人に「今日はもういいですからすぐに避難してください」とうながされて、階段を上がって外に出たらもうペデストリアン・デッキは顔色の変わった人たちでいっぱい、タクシープールも人でごったがえしてました。家族に連絡をとろうと思いましたが、電話はだめ。twitterがつながったので「駅前はこんな様子です」とそのときからつぶやいたりはしていました。でもTVも何も見えないので、どのくらいの被害なのかわからない。津波がくるのかもとは思いましたが、もちろん津波の映像も見れない。twitterで仙台空港が水没しているというのを見て、想像できぬまま......。

五十嵐太郎──そのときは家に向かっていたんですか。

本江──交通は全然動かないので歩くしかなかった。僕の家は仙台駅から10キロくらい北なんですが、とにかく歩く。学生がいっぱいメディアテークにいるのを知っていたので様子を見に寄って、みんな避難して人的被害がないのを確かめてから2時間半くらいかかって歩いて家に戻りました。途中で日没したので、停電で非常に暗いなかを帰ったのを覚えています。あの日は月も小さかった。初日はそんな感じです。

本江正茂氏


五十嵐──僕は神奈川県の「ハウスクエア横浜」という住宅展示場付属のライブラリーで家具の研究者である小泉和子さんを呼んでトークをしていただいてる最中に遭遇しました。自分の経験のなかでもっとも揺れました。受講者には、70代くらいの高齢者もいたのですが、やはり人生最大の地震だと言ってました。揺れがなかなか止まず、机の下に避難していたら、ついには本がばさばさ落ちはじめ、落ち着いたところで建物の外に出たら、住宅展示場のまわりに避難している人がたくさんいました。iPhoneでネットを見たり、radikoで情報を入れつつ、30分くらい様子を見ていたのかな。幸い受講生のなかに車で世田谷方面に帰る人がいたので、そのまま乗せてもらって、家のすぐ近くで降ろしてもらいました。実はまだ交通機関が全部止まっているとは思っていませんでした。後から考えるとすごくラッキーで、もしそれがなかったら、帰宅難民になっていたはずです。 僕の住んでいる奥沢の家は、築30〜40年ぐらいの木造で、トラックが通っても揺れて、震度1になるような家なので覚悟していましたが、本棚などは意外に倒れてませんでした。その日から数日間の予定もすべてキャンセルになり、家でずっとTVを見てました。衝撃的だったのは、天皇が出てきて国民に語りかけたときです。そんなに事態はひどいのか、この世も終わったかと思ったんです(笑)。原発については、東北ではあまり話題にならないけれど、東京ではみなその話ばかりですね。余震も続いたので、ちくちく精神的に被災している感じでした。あの日以降、なにかもう大地が安定していることが信じられなくなった。一週間後、沖縄を訪れ、すでに建材が手に入りにくくなっていると現地の建築家が言っていて、「こういうところにも影響があるんだな」と思いました。

本江──僕は津波被災地をちょっと見に行ったくらいで1カ月間ずっと仙台にいました。はじめは電気も停まっていたのでPCもダメ、手巻きのラジオくらいしか情報源がない。それとiPhoneをだましだまし使って、ウェブのニュースを見るくらいでした。津波もあって、被害が甚大であるらしいということも字面では知っているけど、僕の家は山のほうなんで、駅から歩いたときも「あんなに揺れたのにそれほど被害もないな、建物も壊れてないな」と思いながら帰ったんですね。カーディーラーの建物のガラスなどはけっこう壊れていたけれど神戸みたいに建物がぺしゃんこになるということは全然なくて、これは意外に大丈夫なのかもと、正直思っていたんです。その後津波がひどいよということだったけど、TVも新聞も見れないし、それがどんなものかは俯瞰できないままいました。2日後大学から招集がかかっていることをtwitter経由で知って、大学に来てみて建築学科の建物が大きな被害を受けているということを知りました。

五十嵐──映像を初めて見れたのは2日後くらいですか。

本江──映像が見れたのは3日後です。そのくらい経って初めて津波の映像を見て、原発が事故を起こしていることも、さらに建屋が吹き飛んだのも、TVで知って真っ青という感じでした。

五十嵐──電話もメールも、2日間くらい仙台とはまったく連絡がつかなくなっていて、日曜の夜に石田壽一さんから「こんな状況だ」と初めてメールが来て、東北大がいかにたいへんだったかわかったんです。まさに今しゃべっているこのセンタースクエアの中央棟で教職員や学生が過ごしていたわけですね。ただ、twitterは機能していたので、誰が大学に残っているという自分への報告がなくても、書き込みを見ればわかったので助かった。後で仙台にいた学生に訊いたのですが、現地では情報が断片化されていたようですね。逆に遠隔地にいると、津波や原発など、過剰なほど情報が入って、イメージのレベルで被災する。しかし、直後の現地では、まだ何が起きているかわからない状態だった。

五十嵐太郎氏

被災の生活環境

本江──個人的には、僕は食器などはめちゃくちゃになりましたけど幸い家はつぶれなかったし、家族も無事でした。ただ、断水に停電、食料も特に備蓄もしていませんでしたので、最初の数日間はどうなるのかわからなかった。生活物資の情報を得るまで数日間、息子と手分けして、とにかく避難所になっている学校に行って水を2本もらってきたり、近所のお店がやっているかと回って調べて「どうもあそこはやっているけど、ここはダメ」とか。スーパーは数日経ってからものを売り始めたんですけど、店内の収拾はついてないし電気も来ていないからレジも動かない。真っ暗なので店のなかには客は入れない。ドラッグストアはニーズが高いので早くからやってましたが、客がいっぺんに店の中に入っちゃうとコントロールできないんで5人ずつとか入れて、会計が終わったら次の組を入れるという仕切りをやりながらやっていました。売り場はめちゃくちゃのまんまで床に落ちているのを拾って買う、みたいなことになっていた。朝一で行かないと品切れと同時に店はしまってしまうので、夜明けとともに店の前に行って、自発的に列をつくってというのが何日間かありました。とにかく、状況がどうなっているのかわからないので遠くへは行けず、車を使って走り回れることもできませんでしたので閉じ込められているという感じがしましたね。

五十嵐──震災後初めて仙台に来たとき、もちろん海辺は壊滅的でしたが、街の中心部はぱっと見たところ普通に見えました。ただ、多くのコンビニが目張りされていたのが、日常的ではない風景だとおもいました。ああいう目張りは震災後すぐやっていたんですか。

本江──コンビニの目張りはすぐに出てきましたよね。襲われるんじゃないかと心配したのでしょう、中が見えないように隠すわけです。そんなに殺気立っている感じはなかったですけれど、対策はしていたようです。コンビニは在庫がないんでちょっと開けるとすぐにものがなくなって「もう何もありません」と閉めていた。スーパーや生協のほうがもう少し余力があるという感じで、ガスのカートリッジやお菓子、ラーメンなどは売っていました。レジが機能しないので店頭に1列に商品を並べて、店員が客に1対1でついて一品毎に「これは買いますか、いくつ買いますか」とやる。客は「いらない、いらない、これ2つ」とやって、その場でどんどん計算していって、現金で会計をして帰る。たぶんそれが1番早い。現場の経験のなかで開発された店頭売りの方法なんだろうと思います。 最初は、電気も水も来ないので乾いたものしか食べられない。熱源はカセットコンロくらいしかない。ファンヒーターは電気がないと動かないので、使っていなかった灯油だけのストーブを出して使ったり。でも灯油が買えなくなっていることもわかっていたのでむやみに暖房もたけない。風呂も入れないので、ペットボトルの蓋に穴をあけてぬるま湯を入れた簡易シャワーを使って髪を洗ったりしてました。そのへんの耐乏生活はみんな工夫をしながら乗り切っていたと思います。 僕の家は帰ったその日だけは水が出ていたので、水がなくなる前に風呂とかクーラーボックスにとにかく水を溜めて、それで便所の水は数日間もちました。そういう意味では僕のところは恵まれていたほうですね。高台の友だちの家はすぐに水がきれちゃった。「あそこまで電気は来たけどこっちはまだつかないね」とかいう微妙な格差がありました。

五十嵐──僕は現場にいなかったので身体は健康そのものですが、3カ所に分散配置してた本のうち、鉄筋コンクリートの高層の建物で、1番安全だと思っていた場所が被災し、危険な状況になっているのがショックです。地震は人命を奪い、建物を破壊しますが、文化的被害も及ぼすわけで、20年間くらい集めていた本や資料は、お金で解決がつかない。この精神的なダメージは大きい。ただ、1冊とか2冊とか、本が見当たらないとすごく気になるけれど、千冊以上が一気に消えそうだなとなるともう笑うしかない。桁が変わるとあきらめというか、しようがないなという感じにもなるのは今回初めて思いました。

本江──僕らが入っていた大学の建物が3.11の地震そのものでダメージを受けた。9階建ての3階の柱がやられてしまって、立ち入り禁止です。地震の直後、まだそれほどの被害だという認識がないときに、コンピュータや財布など、とにかく今必要なものをもってくる、ということはやったようですが、その後構造の先生が見て立ち入り禁止になった。僕の本や研究機材も学生の私物もおいたままになっています。東北大学では青葉山キャンパスで建築の建物とあと2つの学科の1番大きいメインの建物が立ち入り禁止になっていますので、大学全体としてはかなり大きな被害が出ています。

被災の境界線

編集部──五十嵐さんはその後被災地をまわられたようですが、感想はいかがでしょうか。

五十嵐──僕はまず仙台の近郊を1日、亘理とか名取、仙台港や多賀城をまわりました。一緒に宇都宮から来た星さんが同行したのですが、彼は宇都宮の住宅のほうが大谷石の塀や屋根の瓦がやられたり、壁が剥落したりといった被害が多いと言っていたように、地震そのものの被害は想像以上に少ないように思えました。この日にまわったエリアは平野なので、津波は横一線でサァーっと流れ込んだわけです。同じ平野ですから地盤の固い柔らかいはそんなに差はないと思うんですが、残っている民家にはほとんど外傷がない。それがあるラインをちょっと越えると、劇的に状況が変わって、建物が津波でむごたらしく壊れている。地震が平等に同じ平野を揺らしても、津波は残酷なまでに不平等な結果をもたらす。例えば、亘理には盛土になった東部道路があり、それを抜けた瞬間に風景が切り替わる。むろん、その手前にも、おそらく数十センチ程度の津波が押し寄せているのですが、住宅は残っている。ただ、田畑が海水に浸っているので、産業としての農業はダメージを受けてしまった。名取でも何事もなかったような郊外の風景があるのですが、ちょっと海辺に近づくと、また風景が一変する。もっとも、ニュータウンも、ボーリング場が遺体安置所になったり、槇文彦さんの《名取市文化会館》が避難所になっていたりという意味では、非日常が紛れ込んでいました。TVでは繰り返し繰り返し、津波で街が襲われる映像をひたすら流していたので、現地を訪れないと、津波でやられたところと日常の風景がびっくりする程、隣り合わせにあることがわからない。また、ほとんど外観上では被害がなかった仙台の中心部もあまり映らないんですけど、東京の人は、全部がやられたような印象をもっていた。

本江──まさにそうですね。僕は地下鉄が動き始めたころ、海辺の被災地を見にいくために内陸のほうから2時間ほど歩いて海に向かっていきました。途中家は壊れていないなと思いながら歩いていったのですが、東部道路のちょっと手前から突然地面の色が変わるところがあって、急にゴミが広がり、ヘドロが地面を覆っているところの際がくっきり出ていて「津波はここまで来たんだ」というのがわかる境界線があった。それまでの家は何でもないのに、その線──東部道路──を超えると、めちゃめちゃになった家や、海岸の松の大木の根こそぎ抜けたやつが道の際にぶつかって止まっていたり、車がひっくり返っていたりという景色が現れるわけです。TVでは何度も見えていたのですが、足がすくみました。普段なら立ち入り禁止になっていても気付かぬふりで入っていくこともありますが、そのときは市が出した立ち入り禁止の看板を前にして、今はこの先には行かないほうがいいなと感じました。心が折れそうだったと言うとべたですが、そのときは引き返してきました。 その後、もう少し落ち着いてから、津波研究の今村文彦先生が大船渡と陸前高田に行かれるというので同行しました。大船渡は港のいろんな産業施設が壊れていて、仙台の宅地の被害とはまるで違いました。それにセメント工場からあふれ出た重油でどれもこれも黒ずんでいる。大丈夫そうに見える建物も変なところに穴が開いて、車が突き刺さっていたりで、かつて見たことがある建物の壊れ方とは全然違う。大船渡でもここまで津波が来たという線がはっきりしていて、線のこちら側は、いつ壊れても不思議でない小屋がまったく普通に立っているのに、その向こう側はめちゃくちゃに壊れた鉄骨造の建物がある、その景色が同時に見える場所が随所にありました。この津波が来たところとそうでないところのコントラストというか、不平等さ、ギャップは否応なく強く印象づけられました。

五十嵐──亘理でも、水辺との距離はほとんど同じなのに、押し寄せる水の流れと地形との関係や周囲のものとの関係で、鉄骨でさえぐにゃぐにゃ曲がるような衝撃を受けたところと木造の家屋なのに残るようなところがあって、本当に不思議でした。結局、津波というのは、建築ではもともとあまり想定されていない力なんですね。地震は基本的に地面が揺れるので、垂直方向に1対1対応で、地面に対して建物の構造をモデル化すれば、計算しやすい。それに対して津波は横から来るわけですが、高さや方角のほか、まわりの地形の影響が関係する。また、50年前はそれほど多くなかった車や船といった金属の塊が、建物にぶつかると破壊的な衝撃が加わる。また手前に建物があって、それが津波をブロックすれば、力は緩和するけれど、逆に手前が空き地だと直撃です。周りの建物との関係も考える必要があるので、地震の簡単な1対1モデルに対して、変数が多すぎるから、建築に対する津波の影響をシミュレーションするのは困難です。土木のレベルであれば、まだ海と地形と防潮堤の関係だけを想定すれば、よいのかもしれませんが。ところで、陸前高田はまさに爆弾が落ちた爆心地みたいな風景になっていたけれど、リアス式の湾という感じでもないのにどうして......。

本江──陸前高田の高田病院は、わずかに残ったRCの建物のひとつですが、ここは4階建ての4階まで浸水し、入院患者さんが亡くなったようです。この病院の屋上に避難した方が撮った、津波がだんだん迫って来る写真を見せてもらったんだけれど、遠くの松林は押し波では切れていないんです。でもその後の現場を見ると松林は残っていない。ただ1本だけ残っていて復興のシンボルになっていますが、2万本くらいあった松林がなくなっているのは、たぶん引くときに根こそぎもっていかれたんでしょう。津波には押し波と引き波があり、引き波にもすごい力がある。変な言い方だけど、陸前高田には、もともと家がたくさんあったはずなのにがれきが少なくなっていたのは、たぶん寄せて引いていくときに全部持っていっちゃった。がれきが足りないという言い方は変だけど、あったはずのモノが全然ないというシーンでした。

五十嵐──僕が見たなかでは、石巻の郊外は、防風林は残っていました。しかし、その奥にある住宅は津波でやられている。ここでは木は残ったけど、それをすり抜けた水が家を洗い流した。場所によって状況が様々に違うわけですね。地震がもたらすのは、ほとんど垂直移動だから、場所は変わらない。阪神淡路大震災の死者6千人のうち5千人が圧死したのも、基本的には垂直方向に屋根が落ちて、下敷きになったわけですが、敷地内の出来事です。それに対して、津波は水平方向に襲い、人もモノも建物も、暴力的に持っていてってしまう。かつて家が建っていた跡地には、思い出の品も何も残らない。だから被災のあり方として全然違いますね。

本江──そう。それに、津波の被害とひとくちにいうと同じなんだけど、その地形の違いや湾の形の違いとかが効いていて、壊れ方やモノのなくなり方はかなり異なりますね。直し方もそれに応じて違ってくると思います。大船渡では、過去の津波の経験から、高台に集めた市役所や病院、新居千秋さんの「大船渡市民文化会館・市立図書館/リアスホール」は無事で残っていましたし、幹線道路も部分的に切れた程度で、それより低いところは大きな被害が出ている。

五十嵐──新居千秋さんのリアスホールや向かいの警察まで津波は到達せず、手前の橋のあたりで止まっているのは、計算通りですね。

本江──もともと公共性の高い建物は高台に、下のほうは工場や倉庫にという都市計画ですね。大船渡はある程度広いので高台の土地もあったのですが。陸前高田は市街地からすぐに山になり、高台に宅地がないんです。それで役所も含めて全部やられてしまった。

五十嵐──僕が見たなかで、もっともひどい建物の壊れ方をしていたのは、女川でした。20メートルくらいの高台に病院があって、明らかに災害時の避難所指定なのですが、街を見下ろそうとして登ったら、なんと病院の1階まで浸水して、車が突っ込んでいた。ここまで津波が到達したら、はたして女川で災害を防ぐことは可能だったのか、と暗澹たる思いにかられました。しかも、この街では、3階や4階建ての鉄筋コンクリート造とか鉄骨造のビルがあちこちで転がっている。木造家屋が流されるのはまだ理解できますが、重量級の建物も水の力で吹き飛ばされることに驚きました。あまり報じられていないところを見ると、亡くなった人の数では、マスメディア的に大した被災地ではないのかもしれませんが、建物の壊れ方としては衝撃的な場所でした。 知らない事例と言えば、仙台で開催された東北大の東日本大震災一ヶ月緊急報告会で紹介された福島の堤防の決壊もそうですね。小さな集落が被災したのですが、亡くなった人の数も津波と比べて少ないので報じられなかったのでしょう。そういう事例は他にいっぱいあるのではないでしようか。

本江──それは福島の須賀川市の藤沼湖ですね。ここは内陸だから津波は関係ないんだけど、水田用のため池の、人工の土盛りの堤防が切れた。それで池の水がどっと山から落ちてふもとの集落を襲った。それは大津波とは違うけれど地震で水害が起きたわけです。僕も昨日の東北大学の災害に関する報告会で知ったんですが、こういうことがたくさんあちこちで起きている。誰にも全部は見切れていないだろうなとあらためて思いました。

五十嵐──さらに、原発がもたらしたイメージの被害まで考えていったら、東日本大震災の全体像はまだよくわからない感じがします。

建築的取り組み

編集部──被災地の復興が色々取り沙汰されるようになっていますが、それに関して国レヴェルの話ではなくて、大学の建築学科としての動きとか、あるいは個人的にそういうことについて考えていらっしゃることはありますか。

本江──東北大学は、小野田泰明さんや石田壽一さんを中心に業務復旧チームが工学研究科のなかにつくられています。市民の避難と同じで3段階のフェーズがあります。まず「避難場所」を確保するというフェーズです。学内はたぶん3万平米近くが使えなくなっていて、教員と学生でいうと1000人くらいのオーダーで居場所を失った人たちがいますので、その人たちがとにかく業務を再開できる空間を確保しなくてはいけない。それには、比較的被害の小さかったところの空いている部屋を調べて避難場所を確保するわけですね。次がプレハブなんかを調達してなんとか授業をやれるようにするというフェーズ。特に工学部は設備に依存して実験とか研究をやるので、取り出せなくなっている設備などをどうするのかという避難所から「仮設住宅」へのフェーズです。その次はちゃんとした建物に戻さなくてはならないから恒久施設をつくり直すというフェーズです。この3つを同時にやらなくてはならなくて、明日の授業の部屋割りを決めつつ、3年後に建つ建物の概算要求をするというようなことを同時にやっています。 本来ならば大学はこうした非常時のための事業継続計画をあらかじめ用意していなくてはならないのですが、十分ではなかった。事務局もがんばっていますが、ルーチンワーク以上のことをやる組織のキャパシティはないわけで、ファシリティマネジメントのもろさが顕在化したと思っています。とはいえ、天災は個別的であり、すべてを想定することもできないのも現実です。 同様に、ひとつの都市にもいくつも湾があり壊れ方も一様ではないわけですから、そのひとつひとつの場所の固有性にどう対応するかということが課題です。そのレヴェルでは建築家はやることがたくさんあると思うので、そこにうまく入っていけるといいんじゃないかとは思います。復興の方針として、集落は一律高いところに移すべきであるとか、せっかくやるんだからエコタウンだという意見もありますが、それは間違ってはないけれど、しかし一律に30メートル以下のところには建物は建てていけないというのはまったくナンセンスでしょう。そのような基本方針と、それぞれの場所がもっている適正値の決め方とのあいだにはギャップがある。そこを克服するかが課題だろうと思います。それに対して、僕たちが具体的に乗り込んでいってやれるところまではまだきていないというのが正直なところです。いろんな被災地や集落を見に行ったりはしていますが、まだこれからという感じです。

五十嵐──多くの建築家が参加するアーキエイドという動きが起きていますね。災害への対応として、体育館や公共施設など、緊急の避難場所を確保する第1フェーズはもう終わりかけていて、現在は仮設住宅をつくったり、他の地方自治体の空き屋に入る第2フェーズにどんどん移行していますが、ここだってそう簡単に建築家は入れないでしょう。やはり、短期決戦のプロジェクトなので、仮設住宅にシステムのレベルで提案しても、次の災害には役立つが、今からでは間に合わない。既存のシステムを補完する空間的な提案なら、介入する余地はあるかもしれません。だから、町の復興を行う第3フェーズのときにこそ、アーキエイドをはじめとする建築家の力が役に立つと思います。とくに一様の解決策ではない、それぞれの場所に合った未来像を考えていくことは、得意なはずです。震災・津波での壊れ方が全部違うのは、それぞれの町が自然環境と人工環境と社会背景が全部異なるのに対応しているからですね。それを前提に復興を考えなくてはならない。おそらく地形について、あるいは建築と土木の境界などもテーマにならざるをえない。また、ただ町を復活させても、基幹産業が打撃を受けているので、それも考えないと、結局、飯を食っていけない。東日本大震災は、東北の少子高齢化や産業構造の変化など、数十年かけて起こるであろうことを一気に加速化させたところもあるので、大きなヴィジョンも求められる。

本江──津波は三陸に何度も来ています。直近でもチリ津波があり、明治29年、昭和8年にもあって、被災後は津波が恐ろしいから高いところに村をつくり直すわけです。しかし、罪深いことに津波があるとその数年後にイワシとかイカが豊漁になるのだそうです。農業に比べて漁業はあたると現金収入が大きいので、そうすると山から「おれも船にのる」という人たちがいっぱいやって来る。その人たちは津波を直接経験していないし、港に近くないと働けないから低地に町をつくってしまう。そして、繁華街もでき、職場もあるので、高台の本宅から低いところ戻ってきて町ができあがる。忘れた頃にまた津波に襲われるっていうことの繰り返しなんですね。ただ、今回ちょっと違うのは、もう1度港町をつくり直す力が地域には残ってないんじゃないかということです。豊漁を当て込んで山あいの寒村から出てくる人たちはもういない。そうなるとこれまで歴史的に繰り返し集落が示してきた復元力が現在どれほど残っているのかというとかなりあやしい。産業構造も変わってそれを元に戻すという自力が地域に残ってないんじゃないか。場所が生き続ける仕組み自体が傷ついているので、建物とインフラをつくり直せば人が戻ってくるとは簡単には信じられない。そこが苦しいところです。だから処方箋はまだ考えられていないというのが正直なところです。しかし、ポジティヴに考えれば、「壊滅的な被害」だと言われていても、残っているものもけっこうあります。それに東北は人口も減ってきていましたから、空いている建物もいっぱいある。なにも人口5万人のエコタウンを新たに建設しなくても、がら空きのビルを使うとかすればいいと思います。大復興公共土木事業をやらなくていいと言うと建設業界に対して厳しいんですが、すべてを新しくつくらなくてもいいわけで、残っているリソースをどれだけ使うかというところにアイディアを出せればいいと思っています。

避難所としての建築空間

編集部──地震の後、仙台駅は閉鎖してしまいましたが、駅は一時的な避難所としては機能しないのでしょうか。

本江──仙台駅は地震から1時間も経たないうちに閉鎖されました。新幹線ホームの天井が大規模に落ちたり、水がもれたりといろんなことがあって、実際に危なかったんですね。でも途中の地下鉄の駅もすぐに閉まっていましたから、もう少し一般化して公共の建物がもっと開いていて受け入れられれば違うのになあとは思いました。せんだいメディアテークも被害があったので閉まってしまいましたが、理想論を言えばメディアテークは開いていて、いろんな人たちを受け入れて、避難所として使われるだけではなくて、引き続きネットワークのハブとして働くというものであるべきだったと思います。しかし、実際に壊れているところがけっこうあって、危ないとわかっていて人は入れられないですね。駅とか公共の空間に一定の装備をしておいて、いろいろなダメージが街に起こったときに防災拠点として機能するというのは、考えてみる必要がありそうです。避難できるのは体育館だけというレヴェルではあまりに線が細い。今回は、公共空間がもっていなくてはいけない「ため」というか、そういうものがすでに失われていたということがあらわになってしまった。固有名詞を出していいのかわからないけれど、森トラストが最近建てたウェスティンホテル仙台が入っている一番大きいビルには自家発電装置もあって、震災の直後から「帰れない人たちはどうぞ」といって、避難の受け入れをしていました。逆説的ですが、女川の原子力発電所は安全に停止できたので、そこに避難した人がかなりいます。地元の中では一番安全な場所に建っている一番頑丈な建物なわけですよ。公式な避難所ではないけれど避難した人たちを東北電力が黙認していて、200人くらいのオーダーで現在もいると聞きました。地震の前には、パブリックスペースとしてのショッピングセンターの役割が取りざたされていましたが、被災後には全部閉鎖されて、まったく機能しなかった。もうちょっと余裕があると違うだろうなということは確かに感じました。やっぱりぎりぎりで設計されているから非常時にみんなを受け入れる余力がないんですね。

五十嵐──東京でも帰れなくなった人に、ホテルがロビーを開放して受け入れてましたね。それから避難所になった槇さんの《名取市文化会館》は、全然ひびは入っていないんだけど、透明ガラス建築なので、被災者が丸見えでつらい。ああいう文化施設には、地元の要望で畳の部屋があるでしょう。建築をやっている人から見ると、どうなのかと思うんだけど、こういうとき和室は被災者がなごむ空間として意味があるんだなと見直しました。大船渡の《リアス・ホール》は見るからに頑丈そうなコンクリートの建物なので、安心感があります。またリアス式のメタファーとして屈曲した複雑な内部空間になので、避難所としていろいろな人がそれぞれの居場所を見つけて使いこなしていました。変な言い方ですが、去年見に行ったときの誰もいない状態よりも、いきいきとしていました。体育館のような広い大空間でお互いが見えるようだと、坂茂さんのような間仕切りが求められますが、リアス・ホールはこういう包容力をもっていたのだと再発見したわけです。それから石井和紘さんの《サン・ファン館(宮城県慶長使節船ミュージアム)》は海辺に面した展示室はもちろん壊れていましたが、上のスペースは避難所になっていました。これまであまり考えたことはなかったけれど、災害のときは公共建築が普段とは違う意味で空間の力が試されるわけですね。《リアス・ホール》の状態は、一種の集合住宅の原型みたいで、共同生活の場になるなんて、普通の設計ではそこまで考えないでしょう。ただ、あの空間は一方で現代的なテイストで、お互いにちらちら見える場所があるんですよね。そういうのは目張りされていました(笑)。建築家が考える、視線の交換はいやだと。

本江──空間の質の問題もあるし、使う側の度量もありますね。仙台市は市役所が実際に避難所になっていて、仕事をしているオフィスの廊下や会議室のフロアでみんながごろごろ休んでいた。公共施設はいずれそういう役割を担わなければならない瞬間が来るから、なんらかの備えをしておくべきじゃないかと思いました。でも忘れちゃうんだよね(笑)。寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」言いましたが、数十センチ程度の津波は頻繁に来るわけですよ。その津波の度に町がつぶれていたらやっていけないので、堤防はある程度役に立っている。どんな津波が来ても大丈夫という堤防をつくることはできないし、今後堤防をどうするのかというのはなかなか問題だと思います。大船渡は湾の入り口に湾口防波堤をつくってあって、それは世界で最初のものらしいんですが、今回の津波で壊れてしまった。地震があった後、津波が来るに違いないと地元の新聞社の人がずっと定点で撮った、堤防が壊れていく映像があるんです。堤防はもちろん一定の役割を果たして津波の到達を遅らせはしたんですが、引いていく波で壊れた。これを無駄だったじゃないかと言ってしまうと簡単にすんでしまうのですが、10分か15分かもしれないけど逃げる時間を稼げたということに一定の評価を工学者としてはしなくてはいけない。これからそういう議論になると思うんです。危ないんだからちゃんと防波堤をつくり直したいという声と、ガチガチに固めればいいというわけでもないという議論のせめぎ合いのなかで,何をどのくらいつくるのか。海の景観を守らなければならないみたいな議論は今は生ぬるく聞こえてしまう。「そんなこと言っても死んだ人がいっぱいいるのに」という議論のなかでなかなか力をもちにくいと思いますけど、だからといってしなくてもいい議論ではない。むずかしいところですね。


[4月14日、東北大学工学部センタースクエアにて収録。
写真は仙台市若葉区荒浜付近。同日撮影]


いがらし・たろう
1967年生。東北大学大学院工学研究科教授

もとえ・まさしげ
1966年生。東北大学大学院工学研究科准教授


201108

連載 Think about the Great East Japan Earthquake

移動と流動のすまい論(牧紀男『災害の住宅誌』書評)震災報告。仙台から移動と定着のメカニズム──災害の歴史から学ぶこと仮設住宅に関する提案──いま何ができるか
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