「ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展 2012」レポート

五十嵐太郎(東北大学教授/建築史・建築批評)

金獅子賞を獲得した日本館

今年は「ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展」の内覧会と大学の院試が重なり、もっとも休めない行事のため、一般のオープンの後、遅れて会場入りすることになった。残念ながら、ちょうど関係者はほぼ全員帰国した後である。やはり、ほとんど知人に会うこともなかった。実は前回の「ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展 2010」は、後から振りえってみても、日本にとって最高の瞬間ではないかと思っていた。全体のディレクターを妹島和世がつとめ(約30年の歴史をもつ建築展はもちろん、100年以上続くビエンナーレ美術展を含めて、日本人としては初)、石上純也の「空気のような建築」が展示部門の金獅子賞をとり、故篠原一男が生涯の業績に対して特別の金獅子賞が授与されたからである。ところが、今年も日本の勢いは衰えることがなかった。伊東豊雄コミッショナーによる日本館の展示が、最高の金獅子を獲得したのである。国別のパヴィリオンとしては、1996年のビエンナーレで磯崎新がコミッショナーをつとめ、日本館が金獅子賞に選ばれて以来の快挙だ。
日本館では、藤本壮介、平田晃久、乾久美子が出品作家として参加し、伊東と協力して陸前高田に実際に建設する「みんなの家」の設計スタディのプロセスを展示した。したがって、それぞれの建築家のクセもよく反映された模型が会場を埋め尽くす。最終的に決まったかたちは、力強い柱が何本も立ち上がり、そのあいだに家型の屋根をもつ集会所が組み込まれるというものである。実際、会場にも陸前高田から運んだ木がインスタレーションとして林立している。日本館に入ると、まず最初に気づくのは、木の香りである。彼らを陸前高田とつないだのが、ここが故郷であるもうひとりの参加者、写真家の畠山直哉だ。津波で街が破壊された陸前高田の風景を撮影し、巨大なパノラマとして室内の四面の壁をとりまく。会場に設置されたインタビューの映像を通じて、彼は過去の思い出や、被災地の出来事と被災地外の人たちを想像力でつなぐアートの役割を語る。また展示の最後には、小さなフォト・フレームのなかで、津波に襲われる前の陸前高田の風景が映しだされる。

fig.1 日本館の内部

日本館をどう位置づけるか

以下に金獅子賞の受賞に絡めて、日本館の展示を位置づけよう。
第一に、東日本大震災を契機に建築の原点に立ち戻って、そこから人々が集まる新しい建築の姿を考えるというストレートな姿勢が伝わったこと。日本国内では、敗戦後にがむしゃらに突っ走った近代化への反省となるだろう。おそらく、西洋の文脈では、古典主義の危機を迎えた18世紀にロージエの著作『建築試論』が原始の小屋を示し、それが近代の胎動になったことが想起されるかもしれない。実際、生々しい原木がそのまま柱になって突き出ている「みんなの家」は、21世紀の原始の小屋のようだ。しかも、藤本、平田、乾といった日本の次世代を担う建築家を集め、アメコミのヒーローが結集する映画『アヴェンジャーズ』的な豪華な布陣である。また建築家だけではなく、写真家の畠山が入っていたことは決定的に重要だった。彼が参加したことで、被災地との強い関係をもち、プロジェクトに深みが増し、直接的に感情を揺さぶるような展示が可能になったからである。そして建築家、写真家、被災者がともに考える「みんなの家」は、まさに今回のディレクター、デヴィッド・チッパーフィールドが設定した全体テーマ「コモン・グラウンド(共通基盤)」を受け止めたものになっていた。
第二に、1996年の金獅子賞は阪神・淡路大震災の瓦礫を持ち込み、いわば磯崎新的な「建築の解体」を重ね合わせていたのに対し、2012年の「みんなの家」は建築の始まりを探求するものだ。このストーリー自体は、筆者が石上純也を作家とする案で、企画コンペに勝利し、2008年に日本館のコミッショナーをつとめたときにも用いた構図だが、言うまでもなく伊東こそが妹島、石上の系譜を世に送りだした張本人である。もっとも、今回の作品は一見彼らしくないだろう。そうした驚きの感覚は、磯崎以来日本館が常にビエンナーレで示してきたことである。むしろ、伊東と同郷の藤森照信の感覚に近いと言えるかもしれない。実際、藤森は2004年の日本館において、木を直接削った荒々しい模型(あるいはオブジェ?)を出展していたし、彼のデザインは垂直性が強く、木が軒を突き破ったりする。
第三に、空間の使い方である。伊東らが提案する「みんなの家」と同様、日本館には本物の木が林立していた。ピロティの下部にも設置され、木がフロアを突き抜けているという印象を与える。また中央の床を開け、当初の日本館の状態とし、そこは本当に木が下から上へとつながっているのだ。つまり、しばしば使いにくいと美術関係者から批判される日本館の空間的な特徴を、建築家らしく、巧みに使いこなしている。これが秀逸なのは、インスタレーションであると同時に、1/1の「みんなの家」の空間を想像させることだろう。したがって、震災を差し引いても、すぐれた展示のデザインだったと言える。
そして第四にタイミングである。これは偶然が大きく作用しているが、震災と同じ年でもなく(展示に反映できない)、二年後でもなく(遅れた感じがする)、一年後という時期。最初の建築的な成果がちょうど実際のかたちになる頃合いだろう。前回の金獅子も震災の翌年だったが、あれから16年。実は2006年、藤森照信のときは審査員の意見が割れ、二位に値するものだったことが公式に示されている。通常は金獅子賞しか発表されないので、これは異例だった。その次の石上純也の温室のときは、前回が二位だから一位はないよと言われたが、ビエンナーレ建築展で必ず話題になり、注目される日本館は、いつとってもおかしくない状況が続いていたように思う。2012年は満を持しての受賞である。

fig.2 柱がピロティを突き抜ける日本館

ジャルディーニの印象

すでに金獅子賞の報道は新聞やテレビなどの一般メディアでもすぐに報道されたが、基本的には日本館のことしか触れていないし、twitterなどの反応を見ても話題が日本館に集中しているので、念のため、ヴェネツィア・ビエンナーレの全体像について説明しておく。現在、メイン会場は、各国の常設パヴィリオンが万博のように並ぶ公園、すなわちジャルディーニと、造船所跡地である大きな倉庫のような空間が連続するアルセナーレの二つから構成されている。またこの二つの会場以外にも、ビエンナーレの時期にあわせて、街のあちこちで場所を借りて、国や組織など、さまざまな団体が建築の展覧会を開催している。次にジャルディーニにおける日本館以外のパヴィリオンを幾つか紹介しよう。
まずロシア館は、情報技術を使い、QRコードの装飾パターンに覆われたSF的な空間を上階につくり、下階では冷戦時の隠された科学都市を紹介し、美しくかつ知的だった。オランダ館は、ペトラ・ブレーゼの自動的にシフトを変えるカーテンによって、刻々と空間が変容する。シンプルだが、鮮やかな仕掛けだった。アメリカ館は、ささいなことからでも社会を良くするための建築系プロジェクトの事例を大量に紹介する。セルビア館は、みなで叩いて打楽器にもなる、部屋いっぱいの超巨大テーブルを設置した。そしてポーランド館は、少し傾いた床以外に何もないが、壁が振動し、空間が揺れるような異常な音響効果をもたらす。ちなみに、ロシア館、アメリカ館、ポーランド館は、審査員から特別な言及がなされており、最後まで日本館と金獅子賞を争ったのではないかと推測される。

fig.3 ITパンテオンのようなロシア館

fig.4 カーテンが動くオランダ館

fig.5 社会に介入する建築の事例を紹介するアメリカ館

fig.6 セルビア館の巨大テーブル

fig.7 空間が振動するポーランド

ヴェネツィア館では、ルイ・ヴィトンのサポートによって、18世紀イギリスの建築家ニコラス・ホークスムアの展覧会が開催されていた。こうした近代以前の建築展は、日本ではなかなか成立しないタイプの企画である。またイタリア館の企画展示では、「コモン・グラウンド」を意識して、ラディカルなデザインよりも、歴史や伝統とのつながりを強調するやや保守的なプロジェクトが多かったように思う。とりわけ興味深いのは、ディナー&ディナーが自作を出さず、ジャルディーニのパヴィリオン群の新しい建築ガイドを展示した「コモン・パヴィリオンズ」のプロジェクトである。ここの日本館のテキストとその朗読で筆者も参加しているのだが、ビエンナーレの共通基盤、すなわち各国のパヴィリオンから改めて歴史をたどることは、きわめて重要な試みと言えよう。

http://www.commonpavilions.com/overview.html

fig.8 ディナー&ディナーによるコモン・パヴィリオンズ

アルセナーレと会場外

アルセナーレの展示に関しても、一部屋に一作家という空間体験型が顕著だった2010年の前回、斬新な実験建築がにぎやかに並んだ2008年の前々回に比べると、地味というか堅実な展示が多かった。「コモン・グラウンド」のプロジェクトに対する金獅子賞としては、スラムの問題に取り組む社会派のアーバン・シンクタンクが選ばれている。またヘルツォーク&ド・ムーロンは、ハンブルグのホールのプロジェクトがどう社会との関係で揺れ動いているかを、拡大した新聞 を使いながら示し、「コモン・グラウンド」を考えさせるものだった。とはいえ、2006年の世界各地の都市に関する研究発表的なスタイルに比べると、今回は派手なザハ・ハディドの新しい構造のインスタレーション、インドのアヌパマ・クンドーによるセルフ・ビルドの1/1建築、子どもが喜ぶアイルランドのシーソー的な構築物など、それなりに楽しませる大型の展示もある。アーバン・シンクタンクも、会場内に食堂をつくるプロジェクトだった。またジャルディーニも含めて思ったのは、日本館も含まれるが、ハンガリー館、40,000時間、ハンス・コルホフ、マケドニア、タイなど、模型を大量に並べる展示が目立ったこと。つまり、オーソドックスな建築展への回帰が認められる。

fig.9 アーバン・シンクタンクによる食堂

fig.10 ザハ・ハディドの新しい構造

fig.11 アヌパマ・クンドーのセルフビルド建築

fig.12 アイルランドのシーソー

fig.13 大量の模型を展示する「40,000時間」

fig.14 ハンス・コルホフ

ところで、入口でビエンナーレのマップを渡されたとき、いつも会場外にあふれている国別展示が少ないと思ったのだが、アルセナーレを訪れると、そこにだいぶ吸収されていたことがわかる。実は意外なことに、ポルトガルも常設の展示空間をもたない。しかし、アルヴァロ・シザが生涯の業績に対して金獅子賞が授与され、アルセナーレでは、屋外にシザやソウト・モウラの構築物がつくられたほか、アイレス・マテウスのオブジェが設置されていた。ポルトガル勢の活躍が印象に残ったビエンナーレである。

fig.15 アルヴァロ・シザの屋外構築物

fig.16 ソウト・モウラの屋外構築物

fig.17 アイレス・マテウスのオブジェ

会場外の建築関連企画は、あちこちに分散し、すべてまわることはできなかったが、毎年同じ建物をおさえている香港と台湾のほか、ラトヴィア、グルジア、ルイジアナ美術館などの展示会場を訪れた。ちゃんと屋外にサインが設置され、街を歩いていてもわかるようになっている。日本人が複数参加していたのは、磯崎新による中国の都市計画のほか、吉村靖孝、スタジオ・ヴェロシティ、小山光、高崎正治らが出品するリアルト橋近くのパラッツォ・ベンボだった。一方、小さな4階建ての建物を借りきった建築家の署名展は、数多く集めているのだが、現物を展示せず、すべて複製だったのが残念である。最後にカルロ・スカルパ関連の企画を二つ紹介しよう。彼が設計したオリヴェッティ・ショールームにおける1960年代初頭のイタリア現代美術の紹介と、スカルパが15年間手がけたガラス工芸の展覧会は興味深い。現在、筆者は美術展も見るために、毎年ヴェネツィアを訪れているが、ここはその度に新しい発見をもたらしてくれる。

fig.18 磯崎新

fig.19 パラッツオ・ベンボの集水装置

fig.20 スタジオ・ヴェロシティ

fig.21 ダンボールで内部に地形をつくる台湾館


201209

特集 第13回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展日本館


「ここに、建築は、可能か?」──ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展に向けて
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