最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイ

八束はじめ
富永譲『ル・コルビュジエ 建築の詩』
富永譲『ル・コルビュジエ 建築の詩』
2003年7月発行
鹿島出版会
定価:2,800円(税別)
ISBN4306044319
A5判並製
240頁

美しい本である。もはや、古典といってもいいほどの。私は本書に対してそれ以外に結論づけることばをもたない。

と同時に、個人的なことで恐縮だが、私にとっては懐かしい本である。あとがきにも記されているように、本書はいまは廃刊となった『SD』で30年近くも前に連載されていたエッセイがもとになっている。私のル・コルビュジエ、とくにその住宅作品についての関心は、この富永さんの連載と分けて考えることはできない。私だけではなく当時の若い建築家や学生の多くにとってもそうだったのではないか? とりわけ、まだ学生(院生)だった私はこの同じ時期に『建築文化』で連載特集のメンバーの末席に連なり、当の富永さんとご一緒させて頂く機会があった。私にとってはじめての建築ジャーナリズムとの接触であり、学外の関係者との接触でもあった。他に伊東豊雄さんや、この『SD』連載のもうひとりの著者長尾重武さんなどがおられた。『SD』でも長尾さんが色々な作家のものをとりあげたのに対して富永さんは専らル・コルビュジエ作品だったが、会議でもル・コルビュジエについて言及されることが多かったし、私の関心をそそり、耳学問を増やしてもらったものだ。そういう時の富永さんは実に情熱的で、この巨匠への打込みぶりは端で見ていてもあおられる類いのものだった。私や伊東さんのようなコルビュジエ・シンパでも時々またかと苦笑したくらい。その頃の記憶が本書ではまざまざと蘇ってくる。

本書は、サブタイトルに「12の住宅の空間構成」とあるように、ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸からショーダン邸に至る12の住宅作品の分析を核として、最初に「建築──その変容に満たされた不変の形式」と題された、また最後に「主体の複数性──ル・コルビュジエと現代」と題された章が各々置かれている。序文とまとめというような扱いである。この前後の二つは新しい書き下ろしのようだ。12の住宅作品の分析にしても、あとがきによると全面的に書き換えられたとあるが、手元にあった『SD』のバックナンバーのうちで(全部が揃っていないので)、ラ・ロシュ=ジャンヌレ邸とクック邸のテクストを比べてみると、前者は、「付加・累加を許容する構成法」が主たる分析上のテーマとなっていることは変らないとしても文章はほぼ一新されているのに比べて、後者は若干の異同はあるものの殆ど昔のままである。添付されている豊富な模型写真は当時のものと同じらしい。前者にせよ全く別のことを書いているというわけではない。後者の方がより生真面目な分析だったのに対して、前者はもともと詩的な文章でもあったので、新たにその感興をテクスト化してみたかったということではないか?

この分析が連載されていた当時、つまり1970年代のなかばというのは、日本の建築がポストモダンへ踏み入れた時期である(私の位置づけでは大阪万博が敷居をなす)。近代との距離を感じはじめた証というわけで、建築を社会的な事柄や思想的な事柄から外して語ることが多くなっていた。私や富永さんの周辺でも建築形態論、つまり建築を純粋に形態の集積として論じようとする人々が現われてきた。富永さんの仕事はその先鞭をつけたものだったはずだ。率直にいって、私個人はそうした傾向自体にはいささか鼻白むところがあった。建築を幾何学とその操作だけに還元する作業にはどうも死体解剖にも似た生気のなさを感じていたからだ。ル・コルビュジエに関しても、私の関心は、敬遠されはじめていた社会的な事柄や思想的な事柄の方にあって、それを従来とは違う見方で評価出来るのではないかと思っていた。そうした見方が生気を失って見えたのは、見方の方が悪い、つまりそれらに関して通り一遍な理解から定規をつくり、かつての建築や都市計画を裁断していたにすぎないから面白くなかったのではないかと感じていたのである。作品と、その外部との関連性は、ル・コルビュジエ(に限らないが)を歴史的な文脈の中において正確な測定をすることで可能になるのではないか、当時の見方は事後的に成立した、そして多分に同時代から逆算された、見解をあてはめただけではなかったのかと考えていた。私が歴史に興味を惹かれていったのはそうした思いからである。真空の中で建築を見るのでなく同時代の空気の中で見ること、その空気の中に従来とは違った屈折の仕方を探り出すこと、それが自分の関心事となった。

しかし、このことは建築を社会的な事柄や思想的な事柄「だけ」から評価するということではない。建築は建築である。それ固有の生命があり、それ固有の見方がある。それは単なる知識ではない。歴史は知識ではなく、そこに生気を通わせながら読み取る技術だという考えは私にとって自明のことだった。上のような形態論の隆盛の中で富永さんの仕事だけは全然違うように思われたのは、そのためである。あれは死体解剖とは遠い作業であった。空間に身を置き、それとの応答を虚心坦懐に記述する。新テクストは昔のものとは違うといっても、この点は全く変っていないのではないだろうか? いるとすれば対象を見る富永さんの目に(後輩としてはいささか失礼な形容ながら)余裕が出来てきたということだろう。普通それを印象批評というのかもしれないが、もちろんその土台には建築家としての空間構成に関するフィジカルな分析があるから、気楽な感想というものとは無縁な迫力がある。加えて、このテクストは真に名文である。昔から富永さんのテクストは読ませる文章だったが、本書の記述にはとくに感じ入るような部分が少なくない。感想のあらわし方が上手というよりも、理知的な構成が空間の詩情に置き換わる瞬間の定置というか変換の仕方が傑出しているのだ。ここでは、建築をつくること(エクリチュール)とそれを読むこと(レクチュール)の間に相違はない。詩の上に重ねられる詩。その同調性。それが本書を美しいものとしている要因である。

富永さんが単に形態をいじくることだけに関心をもつ人ではないことは、第3章の、当時デビューしたばかりのリチャード・マイヤーに関する批判(当時の及び現在のコメントの両方がある)にも現われる。形式主義の不毛な自己完結性への警戒、あるいは風土や伝統とのつながりへの意識等など──いまの若い人々にそれは共有されるのだろうか? 富永さん本人の絶妙な記述によれば「作品集の二巻に導かれ、当初は作品を、それが最終的に伝達しようとする世界、いわば作家の精神の実在などというものから引き離し、単なる素材として、形の構成のルールを模型をつくることによって研究し、ゲームをするようにそれを実地に応用しようとした時、初めてその内容の微妙さに突き当たるといった、およそ逆立ちしたようなル・コルビュジエへの接近の仕方も、今では悲しく思うが、私にはそれしかあり得なかったとも考え得るのである」。この突き当たるべき「内容の微妙さ」こそが分析を生きたものとして、テクストに詩を吹き込む画龍点晴の作業なのだ。

当時はともかく、いまでは単なる分析/研究というだけだったら、もっと細かいテクスト(資料)批判がいくらでもあり得るだろう。富永さんも触れられているが、ル・コルビュジエの資料の基本である自選作品集には色々と問題がある。つまり編集面での作為があり、また不統一もある。ル・コルビュジエがこうありたかった姿が提示されていることが多く、必ずしも実際の姿とは合致していない。ル・コルビュジエ財団の資料を編纂してその後に32巻本のアーカイブ(いまでは私ももっているが、はじめて見たのは富永さんの蔵書であり、当時は呆れたことに建築学会にだって置いてなかった)が出たことでこのレヴェルでは随分進展があるとはいえ、それでも十全とはいえない。漫然と写真や図面を見てもなかなか気付き難いが、模型をつくってみるとそうした問題点は露になる(添付されている模型も、従って解釈を通している部分があるはずだ)。このことが指摘されているとはいえ、本書ではそれが具体的にいちいち指摘されているわけではない。それに、これも言及されているとはいえ、コーリン・ロウの分析のような概念ツールが本書で用意されているわけではない。ロウ一派の概念は、反転すると空間構成一般の──エクリチュール、レクチュール双方の──ガイドラインとなり得るように設定されている。デコンストラクションなどもそうだが(デリダのというよりアメリカに輸入され飼い馴らされたものは、ということ)、本質的に教育が方法伝授の技術になっているアメリカ的なものなのであり(実は私はそこはあまり好きではない)、それ自体の新奇さを誇るところがないでもないが、富永さんのアプローチはむしろ伝統的ですらある。研究書としてはそうした批判の手続きや方法が必須だろうが、それは富永さんのアプローチではない。「詩」を読み取るという作業と密室での資料批判とは本質的に相容れないからだ。

富永さんとは随分違うアプローチだが、私自身がコルビュジエ評伝を書いたのももう20年前である。方法も知識もアップトゥデートであるはずはない。若い(ということばを使うとは我々も年をとったものだが、30年もたったのだから......)研究者ならそうした方向でコルビュジエ研究を進展させることは出来るだろう。私はそういう作業を期待しているし、個別には実際に興味深い仕事を散見するようにはなった。しかし、知識や方法の新しさと詩とは別である。建築への知見は更新され得ても、感動はそうとは限らない。所詮はものに立ち向かう個々人の質である。本書のもつ力はそうした意味でいささかも古びていないばかりか、瑞々しい。冒頭に古典ということばを使ったのはそのためである。そして、この意味で本書はル・コルビュジエに関心をもつ若い人々がまず最初に繙くべき書なのである。情報や知識を求めるならその上で他に当たればいい。まずそこに感動や詩を見出さないならば、あなたはル・コルビュジエとは無縁なのだと考えた方がいい。

ル・コルビュジエは私のいまの関心ではないので最新の研究事情を詳らかにはしないのだが、例えば同じ鹿島出版会からはジェフリー・ベーカーの『ル・コルビュジエの建築──その形態分析』が出ている(その訳者の中田節子氏は、当時富永さんのスタッフで、ここにも使われている模型のいくつかを制作している)。あとがきを見るとベーカーはピーター・アイゼンマン(いうまでもなくロウの門下)の論文から影響を受けたと書いているが、私の見たところ、情報は多いけれども分析としてはありきたりである(入門者向きに平易であることは認めなければならないが)。ロウ派とすればもう少し手の込んだものがありそうなものではあるけれど、ともかくベーカーの本よりはこの富永さんの本の方が読んでいて格段に面白いし、美しい。ベーカーのような分析トゥールは他の建物にでも適応可能だが、富永さんのテクストはル・コルビュジエならではの叙述である(別に富永さんには他の建物の分析が出来ないという意味ではもちろんないので念のため。他の例としては、高い本だけれども「SPACE DESIGN」シリーズの『住宅』[新日本法規社]などがある)。つまりここには対象と叙述の間の幸福な一致もしくは共鳴がある。その共鳴なしにはこの本を読むことは無意味だが、そのような本は決して多くない。

とはいえ......上に書いた「個々人の質」もまた歴史的に規定される。古典も不変なのかどうか、私に確信がもてているわけではない。数年前に富永さんが主催されたル・コルビュジエに関する連続シンポジウム(『レアリテ・ル・コルビュジエ』[TOTO出版]として本になっている。)に呼んでいただいて、ミースとの比較をしたのだが、その最後の雑談めいた部分で、私はいまも若い人たちにル・コルビュジエが人気がある理由が良く分からないという暴論を吐いてしまった(ちゃんと記録されている)。ル・コルビュジエの建築はものや形態で完結していないと思うが、そういう部分(肉体/身体や世界)への関心は彼らにとって希薄なのではないか、と述べた私の論に富永さんは同感ですね、といって下さった。我々の接点を確認した思いだった──モダニズムという接点を。ポストモダンのいま、それはいまや遠くなりつつあるものかもしれないのだが。

[やつか はじめ・建築家]


200309

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

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