「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む

八束はじめ

はじめに前口上を一言。今月からこの欄をちょっと模様替えさせていただく。のっけからへこたれるようで不面目なのだが、じつは毎月書評をするのは結構辛い。これまでの本欄も含めて普通の書評は新刊評である(洋書は多少アローワンスをもらったが)。しかし、毎月新しいのを探す作業は、累積するといささか強迫概念になってくる。ここのところずっとやってきた仕事(もうそろそろ打ち上げだが)のために大量に本を読むのだが、それは折々の研究のテーマに合わせて探すので当然新刊書でないほうが多い。このリズムが書評のために断ち切られるのが辛い。じつのところ、とりあげた本のかなりの部分は著者から送っていただいたものである(その割には、非礼なことに、言いたいことを言ったけれども)。そこで今月から少々規制緩和と出て、なにがしかの本(一冊とは限らない)を題材にしながら広い話題を扱うことにさせていただくことにした。これだといまの仕事にも合わせられるからだ。ただし、従来通りの新刊評もありえますので、念のため。

さて、でも今月は何にしようか(同じだな、結局)?と思っていたら、息子が放り出していた『文藝春秋』が目に付いた。芥川賞の発表で110万部だかを売った号(3月号)である。普段だと、だからといって読むことはないのだが、偶々読むべき本が空いていたこともあって、何の気なしに手に取って電車の中で(これが多い)読了した。今月はこれでいってみようか? といって文芸批評に転じたのかと早合点されても困る。いまの仕事のうえで近代文学のある部分は少しは読んだが今時の作品は読んでいない(建築も似たようなことになりつつあるが)。現役の作家でもある鈴木隆之氏と張り合えるわけもないし、だからそれらの作品評をする資格はない。というよりしたくない、というのが読後感で、それについて書いてみようというわけだ。ひねくれているね、毎度ながら。

じつのところ、これを書くのは損な話だと思っている。年寄りの繰り言に近い(というより、そのもの?)からだ。歳は取りたくないものだという声がいまから聞こえるような気がする。「今時の若い者は......」という繰り言はピラミッドの中のヒエログリフにもあるのだそうだが、実際は、私のような若年寄りも含めていまの年寄りの多くはそう言われたくないから黙っているだけの分別(ずるさとルビを振りたい)は貯えている。本欄で時評はしたくないとずっと言ってきたが、それは半分以上この分別のためである。でも、考えてみれば、この書評欄はずっとこの問題を水面下に忍ばせていた。たまには、そして時には、浮上して、つまり馬鹿を言って笑われるのも必要なのではないかと考え直した次第。

3回前の書評(『戦争と建築』)で親子ほど歳の離れた2人の論客(笠井潔と東浩紀)の話に言及した。今回の芥川賞の2人の受賞者は、ほんとに私からすれば娘(はいないが)の年齢である。両作品とも一人称の語りで、こんなことはとっくに誰かが指摘しているだろうが、彼女たちはそれ以外の書き方はしない(できない)のではないか? 多少の扮飾はあるだろうが、自分の生活の延長上にそのまま表現が成立しているように見える。その感性のあり方(およびその表現)やいかにということ(だけ)が評価の対象になったわけだろう。

もともと近代小説は地の文と会話部分が分かれて、その緊張(弁証法?)関係が築かれたところに成立している。それまでの読本はおおむね地の文がほとんどで、会話体は様式化されてはいても浄瑠璃のような演劇の台本がそれにあたる。これら2つのジャンルの手法をスーパーインポーズしたのが近代小説だ、というようなことは入門者向けの近代文学史にも書いてある事柄だが、そこに成立するのは話者(語り手)と登場人物の距離、つまりナラティヴ自体の客体化(=相対化)である。説明する紙面はないが、私に言わせれば、これは建築における「構成」概念とあるところで共通している。それを一人称に特化したのはもちろん新しいことではなく、これも近代文学史上でいろいろと批評の対象になった私小説がその代表である。今回の2つの受賞作を平成の私小説の典型として論ずるようなテクストももう誰かがしているだろう(それ以前にこの現象は文壇では常識化しているのかもしれない)が、私などが一読しても、これらの受賞作にはナラティヴの距離感は皆無である。自己の周りに特異な(『蛇にピアス』★1)あるいは極く日常的な(『蹴りたい背中』★2)世界を築いてそれを言語化している。せいぜい、ボーイフレンドともいえない同級生の「背中」を「蹴りたい」と思う距離感(でもこれはあくまで彼女=作者側から測定された距離感でしかない)の域を出ず、それ以上でもそれ以下でもない。題材が特異な『ピアス』のほうが言語表現はわりと普通で、そうでない『蹴りたい』のほうがうまいいい回しが見られるとは思うが、そもそも文芸時評を気取るつもりはないのでそれはどうでもいい。ただ、結局、私のようなオジさん(?)にして分野違いの賞の権威に伏する必要を毛頭感じない(つまり現代文学がわからなくとも構わない)輩にとっては、それが何なの、の世界なのだ。受賞者(や作品)にけちをつけるつもりはない。私の同僚が、電車でいかにも渋谷風の女の子(さすがにもうガングロじゃなかったらしいが)が、席に座るなりこれを取り出して読んでいたらしいが、それはそれでいい。少女漫画(馬鹿にするのではない。ほんとに前衛的でついていけないのがある......みたい)と同じだから。しかし、『文藝春秋』を買ったのはじつはそういうオジさん世代が多かったという。ちなみに文学を読むことがスティタスだった頃と違って日頃は話題にもしないのに、何で芥川賞だと話題になるのかしらん? 彼らはいくら評判になろうと少女漫画だったら読まないだろうに。

で、その彼らは何を感じたのだろうか? 上記の分別を発揮しておいてくれれば別にいい。知ることのできないものに対しては沈黙を守るしかないというのは立派な公理だし。しかし選者たち(いまでは立派なオジさん、オバさんだ)の評もさることながら(唯一つき離していたのが、現都知事だったのはあまり面白くないが)、普段は本など読まないのに評判になっただけで雑誌を買って読み、職場の若いOLにあれはいいねぇとかいっているとすれば(目撃したわけじゃないのでただの想像)、正直キモい(自分で読んでおいて何だけれど、私は買ったわけではない)。あんたほんとに舌を2つに割るピアスの話に喜んでいるのか、と「小1時間問いつめたい」、いやそんな時間は無駄だろうが(これは作品にケチをつけているのではないので念のため)。子供には結構リベラルなほうだと思うが、自分の娘が蛇ピアスしたいと言い出したら、好きなようにしたらとは言わないだろう(いなくてよかった)。それを通す(せる)かどうはともかく、生理的にご免被りたい。もともと人間、感性の変化にいつまでも易々とついていけるほど器用にはできていない(はずだ)。だから感性の変化が時代の変化、世代の交代につながるのではないか(いかにも愚直な意見だねぇ、自分で書いていても)。蛇ピアスをしたいお嬢さんの感性に40、50のあるいはそれ以上のオジさん、オバさんがついていったらそのほうがおかしい。それが(唯一の)戦線なら、老兵はとっとと消え行くべきなのだ。これとはいささか違うが、前に私の尊敬する(ずっと年長の)建築家が「ガンダム」の話をしている(書いているだったかもしれない)のを見聞きして、そんなに時代にいつまでもついていかなくてもいいじゃないのか、と思ったことがある。それは逆の意味で背伸びというものだ。東浩紀は確かガンダム・オタクでもある(んだったっけ?)。デリダとガンダムを一緒くたにするなよとは思ったが(私は個人的に彼には大いに失望した経験がある。思想家はおおむね本の世界の外では駄目だ)、でも彼は若い。まだ「救い」(と言っておこう)はある。けど、親の(下手すると祖父の)年代でそれをすることはない。反動ぶり剥き出しだが、時代の先端に追い付こうとする脅迫概念が美徳であるとは思われない。

距離感がないというは要するに(スーパー?)フラットだということだろうか? それを透視画的な世界の崩壊などと訳知り顔に解説することは口が曲がってもしたくはないが、どうもこれは当今の建築にも感じないことは、確かに、ない。最近コンペで若い応募者が勝っていることが多くて、それ自体は世代交代で良いことなのだろうが、案や説明を見ていてどうも腑に落ちない。公園のような建築にしようとか(10年前からそういうセリフは聞くがそういうのがその通り感得される建物が実現されたのを見たことがない)、それが揃いも揃ってアメーバか葉っぱか水玉みたいな格好しているのを見ると正直萎える。やっぱり、それが何なの、の世界。傘のプリント模様じゃあるまいし。そうやったらコンペに勝てると言われても、そんな気には生憎なれない(アメーバや水玉の勝ったコンペには応募していなくてよかった──とにかくこういう憎まれ口は叩けるのだから)。デコンのような形態過剰(いまではそれがコンピュータを駆使した3次元曲面のマニエリズムになっているが)も食傷したが、この手の幼児退行(失礼!)にも、ね。

芥川賞の受賞者の弁を見ていて面白かったのは、彼女たちが近代文学の定番を読んでいないことである。漱石とか鴎外とかはもはや参照源ではない、というわけだ。海外文学も然りらしい。関心を惹かれたものだけ読む。それはそうだ。作家は批評家ではない、いわんや文学史の研究者や注釈者ではない。文学的教養のうえに立って書くなんてことは今更必要じゃないだろう。やりたくもないが、説明めかしたことを言ってみれば、それが彼女たちの仕事(っていうのかね?)が「近代」とは切れたポストモダンな所以だ。建築でも似たようなことがある。先だって私が論文の副査をつとめた学生がしたインタヴューで、「大学院生を集めたら前川國男の名前を知っているのがほとんどいない」と宮内嘉久氏が慨嘆、というより悲憤慷慨していた。宮内さんからすれば、丹下のほうが有名かもしれないが偉かったのは前川のほうだというわけだが(話の本筋ではないが、偉かったことには異議はないとしても、私は戦前の前川は──坂倉ほどではないにせよ──際どかったと思っている。丹下は国賊だが前川は抵抗者だというのは怪しい)、藤森さんの丹下本の書評に書いたように、丹下さんだっていまじゃ危ない。「あゆ」(正直苦手だ)だの「モー娘。」を楽しむのに美空ひばり(でも誰でもいいが)を知る必要なんてないわけだし。ル・コルビュジエ、ミースが意外にそうでなかったりするのは不思議だが、これはビートルズはいまでも人気だという程度のことだろうか?

宮内さん(このコラムの読者諸氏は彼の名前をご存じか?)は建築ジャーナリズムにも注文を付けていて、ちゃんと(近代)建築史との関係のうえで現代を位置づけるようなことができなきゃ駄目、みたいなことを言っておられる。まあ、確かに最近の建築雑誌なんて、業界のコネと話題だけで終始するか、それじゃまずいとなるとひどく陳腐なテーマで切ったりする程度の「業界誌」が多い(ばっかりとは言わないでおく。それだけの知恵は残されているので)からね。たぶん、小賢かしい分別とは無縁な宮内氏は、漱石、鴎外も読まない小娘の書いた小説なんて文学といえるかとおっしゃるだろう。ル・コルビュジエ、ミースも、前川も丹下も知らないで何の建築だ、とまぁ、これはご老体(失礼)に言ってほしい、という私の願望でもあるわけだが、さすがにそこまでは私にも言えない(ずるいね、我ながら)。蹴りたい背中ならぬ蹴りたい立面(?)は少なくないが、それはそれとして、ル・コルビュジエ、ミースも知らなくたって建築はできる。それが本来反教養主義(反様式主義とこれは同じだ)であるモダニズムのあり方で、ロースだって、当のル・コルビュジエだって同意したろう(ミースはわからん、あの人はシンケルはもちろんアクイナスなんぞ持ち出すのが好きだったから)。でもそれがアメーバや水玉かと言われると......(以下略)。

こうして見ると、近代建築を反歴史主義というのはとんでもない嘘だったということがよくわかる。少なくとも反は「主義」(つまり「歴史的様式」)にかかっても、「歴史」にかかるものではなかった。そもそも歴史的な意識がなかったら時代精神なんて言わないわけだし。時代精神は時代の先端への意識というのとは違う。共有されたものへの意識なのだから。いわば厚みのある意識だ。ポストモダンの「軽さ」、「透明さ」そのほかの(フラットな)特質はそれを欠落させている。私もそれらの利点は認めないわけではないので、これは必ずしも批判(悪口)ではないが、そこに三人称の地の文と会話体との距離感は生まれないことは否定できない。この距離とは構成感とも参照点とも言い換えられる。それに即してある営為(デザインにせよ批評言語にせよ)が測定されうるような参照の原点だ。それがないと正当化ということはない。面白いとか好きとか、(逆に嫌いとか、それがどうしたとか)は言えるだろう。メタファーのようなものにはそういう形容しかあてはめられない。でもこれらが要請する主語はおおむね一人称だ。いい、とか正しい、とかは主語が三人称だろう。でなければ独善というものだし(ただこの「いい」は「好き」の言い換えの「いい」──最近の用法はこっちが多い──とは違う)。繰り返すけれども、三人称でなければいけないというのではない。いい、とか正しい、という基準ばかりだったら息が詰まる、ということはあるだろう。前川/宮内パラダイムはそうだろうが、私にはそこまで言い切るつもりはない。それが受けるならそれでも「いい」。所詮参照点を喪失した(これは認めざるをえない。それでいいとは思わないが)現代にこれでなければならないというものはないわけだし。ただ、どうも身の丈に合わないものまで提灯はもちたくない、と思うだけだ。

前述の論文でのインタヴューで学生について行って、師の大谷幸夫に久々にお目にかかってきた。先生の言でとても印象的だったのは、これはやりたくない、これはやってはいけないということがある(ご自分のことではおっしゃらなかったが)という一言である。これも見た所は一人称だが、意味は随分違う。三人称的な距離が入った一人称だ。さても中途半端な年寄りである私としては、とてもこの重さの言は吐けないのだが、(逆)背伸びせず、「それがどうした」、という自由は保有しておきたい。

最後に、本稿のタイトルは伊東忠太の「〈アーキテクチュール〉の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」のもじりなのだが、読者諸氏はまさか忠太は知っているよね、いや別に知らなくてもどうということはないのだが。え? 怪獣や妖怪みたいなのを建築につけた人だって?

★1──金原ひとみ『蛇にピアス』(集英社、2003)。
★2──綿矢りさ『蹴りたい背中』(河出書房新社、2003)。

[やつか はじめ・建築家]


200403

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

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