「オブジェクト」はわれわれが思う以上に面白い

エリー・デューリング(哲学)+清水高志(哲学)+柄沢祐輔(建築家)

メタ・スタビリティと結晶化の萌芽

エリー・デューリング氏
清水──デューリングさんにお聞きしたいのですが、去年プロトタイプについて柄沢さんと議論をしたとき、シモンドンのメタ・スタビリティ(安定性)という概念について触れられていたそうですね。たとえば、自動車のエンジンは初期の段階では熱によって炎上しやすかったので、空冷のための機構の形がさまざまに検討された。──これを不安定化とシモンドンは呼びますが、こうした状況のなかでもやがて一つの形状が決定されてくる。これを「安定化」という、という話です。このとき産み出された形状は、自動車の空冷を目的としたものですが、いったんオブジェクトとして成立すると、さまざまな用途への応用をあらかじめもったものになる。──つまりそれは、メタ・スタビリティをもったものになる。プロトタイプとはそういうものだ、という話です。
このときの「メタ(Meta)」は、どういうニュアンスのものだったのか、できればもう少しお聞かせ願えませんか? 「メタ」という用語は、有限のものを超えていくといった、むしろロマン主義的なニュアンスを想起させますが、デューリングさんは多分違う意味で使っていたのではないでしょうか?

デューリング──私の理解では、メタ・スタビリティはヴァーチュアル性と関係があるんです。メタ・スターブルというのは、ヴァーチュアルに多くの異なる状態や、ありうべきスタビリティの水準を含んでしまっている状況です。その意味ではそれは不安定なのですが、私たちは通常不安定さということの意味についてとても貧しい概念しか持っていないのです。基本的に私たちは、あるものがしっかり固定されていなくて、落ちたり壊れたりする危険があるとき(たとえば、壁に絵がゆるく固定されているとか)に使うのです。シモンドンの場合は、諸々の状態がヴァーチュアルなかたちで重ねられたものを扱うことになります。一つの簡単なモデルは、ある溶液を「液体」から「個体」へと変化させる、結晶化のプロセスの類でしょう。ほんの小さな差異、シモンドンが「結晶化の萌芽」と呼んでいるものを導入するだけで充分なのです。ある非常に小さな差異が、システムの全体もしくはある安定性の形態を崩壊させ、まったく違うものにしてしまうわけです。ここには局面や状態のシフトといったものがあります。ある液体が氷になる。したがってここには、さまざまな異質な次元にむけてすぐさま発展してゆく、きわめて敏感な可能性の空間があるわけです。

清水──すると、形而上学(メタ・フィジックス)という場合のメタも、同じようにフィジックスからヴァーチュアリティへと潜行し、異なる様態を産み出すものと考えることができるでしょうか? デューリングさんのテーマには、メタ・フィジックスというものもあると思いますが、そこでのメタについてはどうですか?

デューリング──それは面白い。メタ・フィジックスをメタ・スタビリティの意味において考えたことはなかったなあ! 伝統的に、アリストテレス的には、ある意味でメタ・フィジックスは自然学を超える(メタ・フィジックス)ということですよね。自然学の根底にある仕事として、それは自然学の後にやってくるのです。しかしシモンドン風にメタ・フィジックスを読むというのは面白い。メタ・スターブルな存在論が得られるし、それは実際に、彼がやっていたことですから。──多種多様なレヴェルのリアリティ、発展のリズムなどのあいだで、脱局面化もしくは局面のシフトを経て新たな差異を産み出しながら、存在がそれ自身のうちでいかに絶えず局面をシフトしてゆくかを説明しながらね。おそらくデスコラの面白さもそこにあって、あなたはそこにオントロジーの領域におけるメタ・スターブルな状態を見ているのでしょう。あるオントロジーから別のオントロジーへとシフトし続ける、オントロジー的な枠組みの多様性がある、というわけです(ナチュラリズムからアニミズムへ、トーテミズムとアナロジズムを経て、そして違ったふうに戻って......という具合に)。

柄沢──今までの話をまとめると、プロトタイプとは、有限の作品(オブジェクト)の中に複雑なネットワークが埋め込まれ、そのネットワークの複雑さはオブジェクトの外部に対して、さまざまな角度からの視点の存在を喚起する。その視点の多様さは、それこそ無限といってもいいでしょう。この意味で、かつての有限と無限をめぐる問いに一つの回答が与えられている。オブジェクトは単体でありながらも、そこには無限の可能性が内包されているし、そこから無限の可能性が派生することになる。あたかも一つの空間が、一つの空間であるにもかかわらず、そこから空間が多様に枝分かれしながら無限のネットワークが発生してゆくような空間のイメージをデューリングさんの「プロトタイプ」論は提示しているということですね。「プロトタイプ」はネットワークの基点だと言うこともできますね。清水さんがおっしゃられるミシェル・セールの「幹-形而上学」も、あたかも一つの幹細胞がさまざまな身体の部位に分岐しつつ変化を遂げて「一と多」を繋いでゆくというイメージが、デューリングさんの「プロトタイプ」の議論とどうやら深く共振するようです。
私たちはそのような枝分れしつつ変化を遂げてゆく新しい空間のイメージの中に、建築、哲学、そしてその他のさまざまな分野においても、すでに立ち入っているということだと思います。そしてデューリングさんの意見では《s-house》はそのような意味での「プロトタイプ」をまさに実際の作品(オブジェクト)、空間、建築として立ち上げているとおっしゃる。今回《s-house》として立ち上がった新しい空間のあり方を通して、デューリングさんの「プロトタイプ」論の可能性と射程がより具体的に、明確になったのではないかと思います。

清水──ずいぶんデューリングさんの考えていることがわかった気がする。講演を何本も聞いたくらい刺激になりました。

21世紀のアート、建築、哲学が向かっている方向

清水──ストラザーンもよく、集団と全体の部分というのは恣意的にしか分けられないといい、共同体をつくるのは「道具」だというふうに指摘しています。「道具」というのは、主体と対象のあいだの曖昧な領域にある存在で、同じ「道具」が社会集団によって、それぞれ違う役割や意味を持っている。集団のリーダーは、そこで「道具」をめぐってポイエーシスをします。──その失われたはず、、の〈真の用途〉を、創造してみせるのです。──こうしたことがまさに「切断」というものであり、このときのメラネシアの酋長の振る舞いは、昔の禅匠がお互いの発言や行為の意味を、意表をつくやりかたで転倒し合っていたのに似ているんじゃないか。

柄沢──ここで言う「切断」はシャーマンがやっていることと同じですね。

デューリング──ストラザーンも、準-客体理論を使っているんですか?

清水──彼女はラトゥールと同じような時期に、ダナ・ハラウェイのサイボーグ・フェミニズムの議論なども導入しつつ、独自に緻密な理論をつくり上げていったのですが、結果として似たような議論になっていったのです。デ・カストロは、ラトゥールもストラザーンも両方意識していますね。ストラザーンも、主体と対象のあいだにある「道具」に着目し、それが集団のさまざまな種類やスケールを媒介するものでもあるところから、「一と多」の関係へと接続していった。その結果、準-客体論やラトゥールのアクター・ネットワーク論にも通じる理論になったのです。
21世紀の人類学、アート、哲学が向かっている方向が、はっきりしてきたように思います。今回の鼎談でも問題意識が同時代的に共有されていることがよくわかりました。

柄沢──デ・カストロのパースペクティヴィズムの思想におけるパースペクティヴがいくつも並走しながら位置が入れ替わっているという話と、ストラザーンの理論における、さまざまな主体がそれぞれの身体と不可分になった「道具」などを用いて柔軟に世界を分節し、構造化しつつ、場合によっては図と地が反転を遂げてゆくという理論の構成は、非常に似ていますね。

デューリング──多様なパースペクティヴにとって、なにが共通の空間とみなされるのか、なにかお考えをお持ちですか? あなたは〈グローバル〉という問題に、どのようにアプローチされるんですか?

清水──僕はそれを、「一と多」という場合の、一の側から考えようとしているんです。つまり、個別なものの側から、実際には同じものである普遍が考えられないかと思っています。先ほども触れた純粋経験の理論を導入することで、人類学的な事例といったことだけではなく、あらゆる経験にまで議論を拡張し、多極的なものとしての世界を考察したい。ジェイムズも晩年には、「多元的宇宙」について書いていました(A Pluralistic Universe, 1909)。

デューリング──「ラディカル・エンピリシズム(Radical Empiricism、根本的経験論)」というやつですね。

柄沢──グローバリズムのこれからのあり方について考えるひとつの方法として、ひとつの普遍的な考え方によって統合される世界のイメージではなく、ありとあらゆる類いの個々の中心的な空間として細かく世界を分断したうえで、それぞれの世界が多様に部分的なつながりを有する世界像へと置き換えてゆくという方法がありうると思います。そこでは、かつての近代までの普遍的な思考に基づくグローバリズムのような一つの関係性や考え方によるつながりではなく、細かなありとあらゆる関係性や考え方が縦横無尽に選択的に集団を繋げている。今後のさらなる情報技術の進展も相俟って、物理的な距離の長短も超えて、これらの細かな部分的なつながりは錯綜した距離の関係を持つことでしょう。

デューリング──そうすると私たちは、〈グローバル〉なものをどのように取り戻すことになるんですか?

柄沢──非常に難しい課題ですね。

デューリング──哲学も人類学も、ハイブリッドなオブジェクトについて検討していますが、結局のところ私たちには、多種多様なローカルなパースペクティヴが配分され、悪くすると還元されてしまうようなコモンスペースを前提としない、グローバルの像というものを回復する必要があると思います。ラトゥールが最近〈ガイア〉に熱中しているのも、この問題に取り組む一つの方法だからです。彼は、グローバルは場所から場所を媒介することによって、ローカルに再構成される必要がある、さもなければ、それ自身問題を抱えた全体性や普遍性の違う像に巻き込まれて、WWWのプラネット・アースのようなハイパー・オブジェクトと関わり合い、痛い目を見ることになるぞ、と言うのです。

fig.19──ミシェル・セール
『自然契約』
(及川馥+米山親能訳、
法政大学出版局、1994)
清水──ラトゥールの「Waiting for Gaia. Composing the Common World through Arts and Politics」(2011)はまだ読んでいませんが、僕はミシェル・セールの『自然契約』[fig.19]は重要なテキストだと思っていて、「Waiting for Gaia」と近いところがあるんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか?

デューリング──そうですね。セールは似たようなことを20年前に語っていました。面白いですね。

柄沢──その点でも身体性は非常に重要ですね。身体をまるで人間から拡張された道具のように扱うということの可能性です。言語や身体をどのように扱うかは文化体系によって異なりますが、身体の本質そのものはたいして変わらないので、身体性に深くアプローチすればそこから広範なコミュニケーションの基盤だったりネットワークやコミュニティをつくる契機を産み出すことができると思います。

清水──それは道元が語った、鳥と一体化していながら、それ自体の無辺際な拡がりを持ってもいる「そら」と同じことじゃないかな。

柄沢──デューリングさんは形而上学をメタフィジック「ス」だと、複数性として捉えていますね。しかし実際には、そのような複数性とは大きく異なるかたちで、今までの近代社会において、そして今日の世界においていまだにヨーロッパ中心主義的な単一の形而上学が席巻している事態、事実が最大の問題ではないでしょうか。

デューリング──そうですね。フランス大学出版局(PUF)で僕が共同監修しているシリーズは「MétaphysiqueS」というもので、大文字のSが最後についているんですよ! 柄沢さんが仰っているのは、形而上学を人類学のパースペクティヴから再検討すべきだということですか。あるいはナチュラリスト的な立場からということ?

柄沢──形而上学というのはちょっと言い過ぎですね。考え方、あるいは「ハビトゥス」でしょうか。ハビトゥスは多様であるべきです。形而上学もハビトゥスのひとつであって、ヨーロッパ中心主義的なハビトゥスが長いことはびこっているところが問題だと感じます。

清水──でも僕は、主体と対象や「一と多」といった問題は、ヨーロッパ的な観点で考えていくことが必要で、仏教やアニミズムがどんなものであったかも、むしろそれによって明らかになってくると思います。西田についてもそれは言えるんじゃないか。西洋と東洋の思想を、両方ミックスしないといけない。大事なのは、さまざまな思考を合流させて、自分自身でポイエーシスするということだと思います。

柄沢──ハビトゥスというのは、ツールをどのように使うのかという問いだと思います。多様な異なる構造がないといけない。

清水──構造ではないんじゃないかな?(笑)

デューリング──おそらくは異なるオントロジーでしょうね。しかし〈構造〉という語に、普遍的な意味を与えたくないのだったら、これらの異なる枠組みをどう説明したらいいのか......。これは難しい問題ですね。

柄沢──でも主題は同時性ということですね。

デューリング──いずれにせよ、私の主な哲学的関心は、多様性と同時性とのあいだにある関係です。今、漂う時間(Floating time)についての本を書いていますよ。──流れる(Flowing)ものとしての時間ではなく、むしろ漂う(floating)ものとしての時間、という意味です。先に説明したように、拡張された同時性というレンズを通して、時間が定義されるわけです。それは基本的には、共在についての本であり、アートや建築や哲学が、この問題をどのように採り上げているかについて書いたものです。この本では、桂離宮のような、日本の漂う空間の多様性についても取り組むつもりです。藤幡正樹のようなメディア・アーティストもちょっと出てきますよ。そしてあなたの《s-house》についても、間違いなく一節書くことになるでしょう! 今日、私たちはそれぞれの特殊な領域の観点からディスカッションしましたが、多くの部分が重なり合っていることが分かってとても嬉しいです。実り多いディスカッションでした。

清水──僕も今日は大変刺激を受けました。今世紀のアート、建築、哲学、人類学の動向がどんな方向へ向かっているのか、かなり核心に迫るディスカッションができたと思っています。この鼎談は、日本でこれから本格的に紹介が始まるであろうエリー・デューリングの思想の全体像を知るための、格好の資料にもなるでしょう。柄沢君が設計した《s-house》の思想についても、縦横に語られましたね。新しい〈グローバル〉、ラトゥールの〈ガイア〉のような新しい土壌をいかに再び取り戻すか、という問題意識にも深い共感を覚えました。とても楽しかった。皆さんどうもありがとうございました。



翻訳=吉田真理子(オーストラリア国立大学博士課程)


[2015年12月15日]


(清水高志)
★1──準-客体は、競合する複数のエージェントが織りなす流動的な状況を考察するためのセールの独特の概念。ボールゲームにおけるボールのような、ある物的媒体を介して、複数のエージェントが相互干渉しあう関係を可視化しようとしたものであるが、そうした媒体は複数のエージェントたちの関係と分かちがたくあり、それゆえ単なる客体とも呼べない準-客体(準-主体)であるとされる。準-客体は各エージェントのあいだを経めぐり、ゲームの結節点としての役割もそれにつれて入れ替わっていく。
★2──ウォルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、2001)を参照のこと。
★3──個物は、それを内包するさらに一般的なものが立てられるがゆえに有限なものとして限定されるのではなく、個物どうしが相互に限定しあっており、それによって個物となる、というのが西田の基本的な立場である。西田は後者の「相互限定」に対し、前者を「過程的限定」と呼んで批判しているが、この対談の文脈でいえばこれはロマン主義的、プラクシス的な限定であるといえるだろう。
★4──ラトゥールのアクター・ネットワーク論においては、複数の集団とその相互の流動的な競合関係がある対象をめぐって可視化され、考察される。この対象は、しかし実際にはそれらの集団各々の働きかけを内に織り込んだものであり、純粋に対象とも主体とも言えない〈ハイブリッド〉なものである。こうした〈ハイブリッド〉な中心的媒体を通じて、複数のアクターがつくりだすネットワークを考えるのがアクター・ネットワーク論であるが、ラトゥール自身も認めるように、そこでは先述のセールの準-客体論が、その理論の背景になっている。
★5──離接的綜合(synthèse disjonctive)は、『アンチ・オイディプス』等に登場するドゥルーズの概念で、ヴィヴェイロスも用いる。ここでは、「一によって他を制限することもなければ、他によって一を排除することもない、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」諸パースペクティヴの相互包含的な関係、というほどの意味である。
★6──ここで言及している〈第三の論理〉としての「幹-形而上学」については、『現代思想 総特集=人類学のゆくえ』(青土社、2016)の「幹-形而上学としての人類学」という論文で、その基本的な構造が提示されている。
★7──この翻訳は『作家、学者、哲学者は世界を旅する』というタイトルで、水声社の「人類学の転回」シリーズから2016年8月に刊行予定である。


エリー・デューリング(Elie During) 1972年生まれ。哲学。パリ西ナンテール・ ラ・デファンス大学(パリ第10大学准教授)。2007年、論文「From Relativity to Spacetime: Bergson between Einstein and Poincaré」でPh.D.取得。主な著書=『Matrix : Machine philosophique』(共著、2003)、『Faux raccords : La coexistence des images』(2010)、『L'âme』(2013)、『La métaphysique』(2013)、『Le futur n'existe pas: Retrotypes』(アラン・ビュブレックスとの共著、2014)など。日本語では「プロトタイプ論──芸術作品の新たな分身(1)」(『現代思想』「特集=現代思想の新展開 2015──思弁的実在論と新しい唯物論」青土社、2015年1月号)を読むことができる。

清水高志(しみず・たかし) 1967年生まれ。哲学。東洋大学総合情報学科准教授。主な著作=『セール、創造のモナド──ライプニッツから西田まで』(2004)、『来るべき思想史 情報/モナド/人文知』(2004)、『ミシェル・セール──普遍学からアクター・ネットワークまで』(2013)。翻訳(共訳)=ミシェル・セール『アトラス』(2004)、『ライプニッツ著作集 第二期 哲学書簡』(2015)、ピエール・レヴィ『ポストメディア人類学に向けて 集合的知性』(2015)など。

柄沢祐輔(からさわ・ゆうすけ) 1976年生まれ。建築家。柄沢祐輔建築設計事務所主宰。東京理科大学理工学部建築学科助教。主な作品=《villa kanousan》(2010)、《s-house》(2013)「ケソン・デイセンター」「寧波大学複合体育施設設計競技案」など。共著=『アーキテクチャとクラウド──情報による空間の変容』(2010)、『設計の設計』(2011)など。


201608

特集 ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展──「en[縁]」の射程


en[縁]:アート・オブ・ネクサス──「質感」と「リズム」の建築
オルタナティヴの批評性と可能性
出展作家から観たヴェネチア・ビエンナーレ──特別表彰は期待への投資である
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