彫刻と建築の問題──記念性をめぐって

小田原のどか(彫刻家、彫刻研究)+戸田穣(建築史)

建築の表象性──塔と軸線

小田原──建築家とモニュメントと言えば、先日「白井晟一の『原爆堂』展」を見ました。2013年に武蔵野美術大学美術館で開催された「墓は語るか」という展覧会で展示された岡﨑乾二郎さん監修の模型を再び見ることができたこともよかったですし、竹中工務店が制作した再現CG映像の完成度にも驚かされました。《原爆堂》(1955)のプランはあの地下空間こそが肝ですよね。地下は俯瞰することができず隠されていますが、そこにも構造や動線があります。『ET IN ARCADIA EGO 墓は語るか 彫刻と呼ばれる、隠された場所』(武蔵野美術大学 美術館・図書館、2013)でも、岡﨑さんの論考で、エトルリアの遺構や、ジャコメッティ、イサム・ノグチ、白井晟一らの作品にとっての地下空間の重要さが解読されています。《原爆堂》は依頼主がいたわけではなく、個人的に取り組んでいたプランだそうですが、建築家の仕事のなかでも、依頼主がいて、注文があり、それに対してプレゼンテーションを重ねていくものがある一方で、自分のための仕事もあるわけですが、それらをひとりの人間が並行して行なうのは、引き裂かれるようなことではないかと思い、興味深かったです。

戸田──「白井晟一の『原爆堂』展」は素晴らしかったですね。CGの完成度ゆえに元となった図面にも多くの発見がありました。個人的には特に白井晟一にとっての柱、それもギリシア・ドリス式の柱が印象的でした。建築家は、自分自身で建物そのものをつくるわけではなくて、構想を描く立場です。ある意味では身体性を奪われているとも言えます。2017年に国立近現代建築資料館で開催された「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s-1990s」展を企画する機会がありました。そのなかで高松伸さんにインタビューしたのですが、彼は建物はいずれ壊されてしまうけれど、ドローイングは歴史に残るだろうと言います。彼は実務のかたわらで製図板に向かって、鉛筆をノミのように使い、ケント紙に刻み込むように線を入れていきます。そこには永遠性への思いとともに、設計だけでは昇華しきれない建築家の身体性が乗せられているように思います。高松さんは《織陣》(1981)を発表した直後、白井晟一と面会する機会があったそうです。そして白井の自邸を訪問し、ふたりで話していたのは書のことだったといいます。高松さんも書をよくされるのですが、白井は同じ字を延々書き続けるそうなんですね。ちょうど建築家が一本の線を求めてエスキスを重ねるように。ある種の建築家にとって主体が引き裂かれてあるとするならば、描くあるいは書くという行為によって身体につなぎとめる必要があるということでしょうか。

《原爆堂》だけでなく、白井の建築はまさに記念するものとしてある。その記念性の強度は戦後の日本建築においては極北にあるようなものです。「メタボリズムの未来都市展」(2011)や「ジャパン・アーキテクツ 1945-2010展」(2014)でも、ヴィスタの先に原爆堂のドローイングが掲げられているのが印象的でした。


戸田──建築と記念性については、建築史家ジークフリート・ギーディオンが、『現代建築の発展』(みすず書房、1961)のなかで、人間には記念性への「永遠的要求」があるとして、記念性の問題にアプローチしています。1940年代のテキストです。近代主義は象徴性を排したとは言われますが、ギーディオンは機能主義の次に、記念性について考えていました。ル・コルビュジエが「住宅は住むための機械である」と書いてから、20年後には近代主義を次のステージに進めようという議論が出てきているわけです。ギーディオンは、ナチスやソ連のように前面に円柱を並べた建築を「擬似記念性」として批判します。ではギーディオンが見すえていた記念性はどのようなものだったのか。『空間・時間・建築』の叙述とも繋がるわけですが、キュビズム時代のピカソのスケッチ、あるいはコンスタンティン・ブランクーシ、アントワーヌ・ペブスナーによる彫刻。時間あるいは運動を内包するような時-空間的な造形をそのモデルとして挙げています。彼のヴィジョンはある程度予見的でした。というのもその後の近代主義の建築は、鉄筋コンクリート構造の発達によってカテナリー・アーチやHPシェルなど、石では到底なしえなかった造形によって記念性を表現することになるからです。そこには重力による圧縮力にひたすら耐えるだけではない、力の流れが感じられます。丹下健三の広島計画でも、コンペ時には巨大なアーチが提案されていました。《東京カテドラル聖マリア大聖堂》(1964)[fig.6]も、どこかアントワーヌ・ペブスナーの曲面を思わせるようなシェルの形態がメタリックな素材で覆われています。一方で、そこで表現されていたのは「記念性それ自体」というようなもので、かつての建築が持っていた歴史性というものではなかった。当然といえば当然で、様式主義の建築において歴史性を担っていたのは、歴史画や彫刻、あるいは壁に刻まれた文字であったわけです。近代主義以降、建築はみずからそれらの具象的な表現を切り離し、歴史性の表現を手放していったからです。

fig.6──《東京カテドラル聖マリア大聖堂》[撮影=編集部]

建築が具体的な意味性を持つために残された方法は多くありませんでした。そのひとつが塔を建てるか、軸線を設定することです。先ほど挙げた菊竹清訓による海外慰霊碑も、戦地から日本に向けた「あちら」へ軸線が設定されています。他方、塔は「われここにあり」を表現している。丹下健三の広島平和記念公園では、《広島平和記念資料館》が水平に横たわり、ピロティを潜って「あちら」、つまり原爆ドームへの軸線が設定されています[figs.7,8]。そして軸線の先に垂直に立つ原爆ドームの真上に、原爆が落ちてくる風景が想像される。爆心地はずれているわけですが。一方、磯崎新は国家の表象としてのモニュメントを批判します。審査員を務めた水俣病犠牲者のための記念碑《水俣メモアリアル》の国際コンペでは、アンチモニュメンタルなジュセッペ・バローネ案を一等に選んでいます。シェルやアーチといった抽象的な構造表現も、造形的な類型性を備えているという意味では、凱旋門やオベリスクと変わらないとも言える。塔にせよ軸線にせよ、「ここ」と「かなた」をつなぐ回路を開くものです。それゆえに超越性につながりやすい。『建築雑誌』では東京都の慰霊施設を設計した相田武文さんと石巻市に祈念碑を設計した小石川設計の鼎談を組みました。どちらも最初は「塔」が求められたそうです。結果的に水平に展開し、かつ軸線をいかに相対化するかということが意識されました。特に小石川設計の《石の祈念堂》(2014)は扇形に開かれたもので、新しい記念の空間性を実現しています★8


figs.7,8──広島平和記念公園[撮影=戸田穣]

小田原──《水俣メモリアル》は磯崎新によってモニュメントではなくメモリアルという名称になったのですよね。モニュメントという国威の誇示に使われる名は水俣にふさわしくないという理由で。まさにモニュメントとは、近代以降、国民国家が形成された際に、美術館・博物館の設置、地図、人口調査などと同じように、ひとつの「仕組み」として立ち現われてくる。モニュメントという言葉自体、近代の産物であって、ロザリンド・クラウスが言うような、近代彫刻が伝統的なモニュメントから脱して成り立ち、台座から解放されて美術館へと移動し自律したという「物語」には構成的に無理があることを、金井直さんが『彫刻 1』収録の鼎談で鮮やかに指摘してくださいました。


201808

特集 記念空間を考える──長崎、広島、ベルリンから


彫刻と建築の問題──記念性をめぐって
ドイツの記念碑と共同想起の現在──《ホロコースト記念碑》とコンペ案から
記念碑を内包する記念碑──《ノイエ・ヴァッヘ》の空間と意味の変遷
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