彫刻と建築の問題──記念性をめぐって

小田原のどか(彫刻家、彫刻研究)+戸田穣(建築史)

議論と参加の契機

戸田──彫刻にせよ建築にせよ、それがみんなの、あるいはわれわれのものだと感じられるためには、どのような条件が必要なのか。例えば慰霊の空間にとって、「みんなでつくる」というのはひとつ重要なモメントになります。谷口吉郎の《国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑》では、六角堂の中心に陶棺が置かれています[fig.13]。備前で焼かれたものですが、この成形には戦争遺族や帰還兵、生死不明の子供を待つ親たちが参加しました。陶土の材料となる土も日本国内だけでなく中国、朝鮮半島、オーストラリアまで広く求めています。

fig.13──《国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑》六角堂の中央に置かれた陶棺[撮影=戸田穣]

『彫刻 1』のなかで、千葉慶さんが八紘一宇の塔などいくつかのモニュメントをとりあげて、公共彫刻による公共空間の創出を論じています。特に八紘一宇の塔とそれに付随する儀式を通じた参加のメカニズムについて興味深く読みました。というのも、そこで行なわれていたプログラムは戦前の国家主義が前提にしていたことは間違いありませんが、その参加のメカニズムには、古典主義的なアカデミーの芸術による啓蒙のメカニズムと変わらない、ある普遍性があるように思ったからです。モニュメントを前にした語りの場とでも言うのか、5月に広島を訪れる機会があって、平和記念公園を見て回ったのですが、菊池一雄の《原爆の子の像》をぐるりと囲んだ修学旅行生たちが、どこかへ言葉を届けようとしていました。そこには、私のような通りすがりの人間の足を止めさせる何かしら真に迫るものがありました。と同時のその何かしらを消化しきれないでいるのも事実です。

公共空間へのプログラムのインストールという意味では、戦後の各自治体の公共空間にも注目したいと思います。『建築雑誌』の「建築は記念する」特集では都市史の田中傑さんと「20世紀記念建築年表」を制作したのですが、その際に集めた事例から興味深い発見もありました。記念建設事業はしばしば記念事業として企画されますが、その対象として、戦前は皇室関係、戦後は地方自治体の周年記念という対比が明快に出ました。特に1950年代の復興期には各地方自治体に市庁舎や市民会館、公会堂などの複合施設が建てられていきます。村野藤吾や佐藤武夫、前川國男、坂倉準三、丹下健三らが代表的な建築家です。最近は、これらの建て替えが取り沙汰され、学会からも保存要望書が出ています。そこで強調されているのは、これらが単に偉大な建築家の作品ということだけでなく、また単純な機能主義でもなく、まさに市民のための公共的な空間として設計されたという市民社会における意義です。それらの計画は、図式的にいえば行政の中心である市庁舎と市民の代表である議会、そして市民の場所であるホールが対等に並置され、それらを調停するように広場や吹き抜け空間が中間領域として設定されます。保存要望書のなかでは、例えば丹下健三は1階をガラスに囲われた開放的なピロティとしたのに対して、村野藤吾は閉鎖的な吹き抜け空間を用いたといった造形的な対比が語られます。そしてその空間に、岡本太郎や猪熊弦一郎、多田美波の壁画がかけられ、辻晋堂や流政之、イサム・ノグチや山内壮夫らの彫刻が置かれ、人びとが集まることで公共空間が立ち上がる。このような建築と絵画・彫刻の綜合を唱えたのも神代雄一郎でした(『現代建築と芸術』、彰国社、1958)。この対談の最初の方で、近代主義の建築は具象的な意味性を手放したと言いましたが、やはり建築だけではその空間の性格といったものは伝わりません。そこに集まる人びとにとって、そこにある彫刻や壁画は装飾以上の意味を持っていたはずです。少なくとも近年の高層建築の公開空地に置かれた彫刻あるいはオブジェとは異なる期待が込められていたように思います。

一方で、公共彫刻の歴史を考えると、銅像などの具象表現は、近代美術史・彫刻史よりも文化資源学的な視点から論じられているように思います。近代建築の表現史を大雑把に整理してしまうと、公共建築では洋風建築によって近代化がはじまり、近代主義と帝冠様式が並行する時代があり、やがて近代主義にまとまっていきます。近代主義のなかで「日本的なもの」をどう表現するかという議論はありましたが、直截な歴史主義による表現が採られることはありませんでした。その傍らで「和風」というカテゴリーが主として住空間に残り続けます。建築との対比から見ると、戦後に公共事業として巨大な擬人像がなぜ存続しえたのかというのは不思議なところです。日本の彫刻界において、朝倉文夫、北村西望のような人たちがつくっていた彫刻は、戦争などを経て、どのように位置づけが変わったのでしょうか。

小田原──私が『彫刻 1』で戦時の彫刻を特集したのは、おっしゃるように、銅像が近代美術史や彫刻史から切り離されているように見えることに疑問を持ったためでした。美術史において、戦時の彫刻は長く「空白」「空白の時代」だったと言われてきました。しかし、寄稿者の平瀬礼太さん、椎名則明さん、迫内祐司さんが、じつは戦中こそ軍需インフレによって彫刻が活況であったことを明らかにしてくださいました。そしてそれは銅像と呼ばれる彫刻がブームとなった時期でもあります。さらに聖戦美術展、大東亜戦争美術展は朝日新聞社が、戦う少年兵展、海軍従軍美術展は毎日新聞社が主催し、日本各地だけでなくアジア諸国を巡回した事例もあります。その仕組みは戦後も引き継がれ、戦意昂揚のための国策美術展において培った手法を踏襲して、いまでもマスメディアはブロックバスター美術展と密接に関係しています。光を当てたくない「何か」があるからこそ、この国の美術史は戦時の彫刻を「空白期」としてきたのでしょう。

戦前の彫刻家が主に具象彫刻をつくっていたのは、彫刻教育のカリキュラムや、卒業後の仕事の問題もあったと思います。銅像がブームだった頃は、それによって生活をしていた彫刻家が多かった。生きるためにつくる。団体展で前回よりも絶対に良い賞をとって、仕事を増やし、家族を養わなければならない。北村西望の手記からもそういった切実さが痛いほど伝わってきます。

戦争画などに関わった画家とは異なり、戦後に戦争責任を問われた彫刻家はひとりもいませんでした。その理由は、彫刻家が従軍していたわけではなく、銃後であったことが大きいのだと思います。ただ、高村光太郎は隠遁を余儀なくされていますが。戦後、軍人の銅像が新しい時代にそぐわないということで相次いで撤去されましたが、戦争を経て彫刻の位置づけが変わったかと言えば、そういうことはなかったと言っていいと思います。そういう流れのなかで、北村西望が戦時の作風そのままに、「平和」という言葉を冠して巨大な《平和祈念像》をつくるということも起きてしまう。大きな議論もないまま、60年以上も私たちはあの彫刻に頭を垂れ続け、この国の平和のシンボルとして世界に発信しています。


戸田──近代主義以降の彫刻が美術館のホワイトキューブのなかで突き詰められていったことと、擬人像や裸婦像が都市空間に生き残ったこととは裏表ではないかと思いました。さらに市民がある種のわかりやすさを求めるという面もあったのでしょうか。

小田原──そうですね。アメリカでもドイツでも、記念碑建立をめぐる議論では「わかりやすさ」が繰り返し問われました。日本の彫刻史としては、当時為政者と結びついていた彫刻のあり方への反省がなされなかったこと、その非を誰も咎めなかったこと、そもそも非が非として現在においてもなお認識されていないということに尽きると思います。戦後にブームとなった公共空間の裸婦像が戦前のメカニズムを継承してしまっているところにもっと光を当てなければと思いますし、たとえ生活するためとはいえ、多くの彫刻家が時局に寄り添い造形に伴う快楽を是としたこと、作風は変えず作品名だけを変えても評価され続けたことへの反省的な視点を持つべきだと思います。

戸田──メカニズムを継承したという意味では建築も変わらなかった部分は大きかったように思います。

小田原──丹下健三の軸線については、第1回すばるクリティーク賞受賞した近本洋一「意味の在処──丹下健三と日本近代」でも、『ゲンロン2』(ゲンロン、2016)に収録されている五十嵐太郎「近代日本における慰霊の建築と空間」でも、戦中の《大東亜建設忠霊神域計画》における富士山への軸線が活かされていることが指摘されていますよね。もちろん丹下にとっては正当性があったのだとは思いますが、背後にある思想は何でもいいのか、それが何を促す装置なのかは敏感に考えたいところです。

モニュメントが近代の発明だということは先ほど触れましたが、戸田さんがおっしゃった「普遍性」について、八紘一宇の塔の内部にあったレリーフと戦後の公共施設内の芸術作品の連続性も検討したいです。歴史的には、国民国家、市民をつくり出す際には、その外部、野蛮人、未開人が想定されている。人間が人間を排除するために芸術を用いるということには、身がすくむような恐ろしさを覚えます。そういった視点を持ち続けたいです。

戸田──インストールされているプログラムだけではなくて、そのメカニズムへの批判ですね。近本さんの論考は丹下の記念性について新しい解釈を提示しています。特に広島における原爆ドームと巨大アーチの関係性の指摘には刺激を受けました。一方でカテドラルの軸線の解釈については違和感がありました。富士山に向けて軸線なんてそうそう引けないわけです。そこにぬけぬけと軸線を通すことによって、どのようなプログラムにも対応してしまうところが、テクノクラートとしての丹下の面目躍如ではなかったかという気がします。改めて考えてみたい問題です。

公共空間の創出への反省という意味では、『彫刻 1』のなかで小田原さんが「彫刻は破壊されるときにいちばん輝きますよね」(289頁)という発言をされていて、衝撃的でした。建築は建てるのが仕事ですし、守ることにも熱心ですし、その内部に人間がいることも本質的な性格ですから、なかなかそうは言えません。


小田原──彫刻の保存と修復に携わる人には、ラディカルすぎると怒られてしまいそうですが、私は彫刻が破壊されることをネガティブには捉えていないのです。むしろ、歴史的人物を彫刻化して、その威光とともに像を永遠にとどめておこうとすることは、人間の感性とあまり調和しないのではないかとさえ思っています。例えば、メキシコの「ピニャータ割り」や英国の「ガイ・フォークス祭り」のように、集団でたたき壊したり、一晩中引き回して焼き捨てるような擬人像との関わりは世界各地で見られます。

そしてレーニン像やフセイン像の破壊に顕著ですが、ある人物をその権威ごとかたどった具象彫刻に対して、首に縄をかけて引き倒すといった方法で台座から引きずり下ろし破壊することが、自分たちの新しい社会を自分たちでつくることを象徴する儀式やメディアパフォーマンスと化しているような現実もあります。そうした彫刻は、ある場所では破壊されても、今、指導者の銅像製作がとても盛んなアフリカや、韓国の慰安婦像などとしてまた出現する。半分冗談ですが、そうやって新陳代謝をするから、地球上の彫刻の総量は一定だと話すこともあります。

一方日本では、廃仏毀釈や、伊藤博文の銅像や本郷新が制作したいくつかの具象彫刻に対して破壊工作が行なわれてはいますが、基本的に、前体制の象徴としてのモニュメントや銅像、彫刻を自分たちの手で引き倒すことがなかったと言えます。関東大震災によって壊れてしまった九段下の品川弥二郎像の写真がありますが、この写真をキャプションなしで見たら、普通は台座から引き倒されたように見えると思います[fig.14]。日本において彫刻の破壊は、人為ではなく、地震によって起きている。

fig.14──関東大震災によって倒壊した品川弥二郎の銅像
[出典=『関東大災害画報』(敬文社、1923)]

小田原──そういった意味でも、日本という場所の彫刻が背負っているものはとてもおもしろいと思っています。現状では、彫り刻むという言葉にさまざまなものが閉じ込められていますが、そういったありようこそ、彫刻が多様性を内包していることの証左です。彫刻には、多様な素材が、技法が、歴史がある。だからこそ、彫刻という言葉を盾にした教育現場での抑圧がなくなるよう言説を豊かにしていきたいですし、隣接する領域を下位に置いて自らの優位を確保するのとは別の方法を探していくつもりです。いつか、彫刻という言葉が多様性という意味の比喩として、一般に定着すればいいなと思います。

戸田──銅像を引き倒したことがないということは、革命が起こらなかったということでもありますね。今日は、記念性というテーマで、彫刻と建築、それぞれの問題意識をパラレルに語る機会となりましたが、社会的なコンテクストにおいてそれらを考えるとき、重なり合う問題系が広がっていることが確認できました。小田原さんの彫刻への問題意識は、制作者としての強い倫理観に裏づけられていますね。現在の建築において批評性を再び磨くための多くの示唆を与えてくれるものだと感じました。特に近代の公共空間のなかで彫刻と建築の関係性や役割がどのように変化してきたかについては、より深い議論の可能性があるように思います。今日はありがとうございました。

[2018年6月30日、LIXIL出版にて]


小田原のどか(おだわら・のどか)
1985年生まれ。彫刻家、彫刻研究。博士(芸術学)。パブリッシングプロジェクト・トポフィル共同主宰。編著=『彫刻の問題』(トポフィル、2017)『彫刻 1』(トポフィル、2018)。共編=『原爆後の70年』(長崎原爆の戦後史をのこす会、2016)。展覧会=「小田原のどか個展STATUMANIA 彫像建立癖」(京都造形芸術大学ARTZONE、2017)ほか。受賞=群馬青年ビエンナーレ2015優秀賞、第12回岡本太郎現代芸術賞ほか。

戸田穣(とだ・じょう)
1976年生まれ。建築史。博士(工学)。金沢工業大学建築学部建築学科准教授。おもな活動=「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970-1995」展ゲスト・キュレーター(文化庁国立近現代建築資料館、2017-2018)ほか。編著=『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』(鹿島出版会、2017)ほか。


201808

特集 記念空間を考える──長崎、広島、ベルリンから


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