都市アウターリング研究事始め──際はどこにあるか?

青井哲人(明治大学准教授)
編集部からの依頼は、埼玉県川口市・蕨市あたりのクルド人コミュニティについて、東京の「際」という観点で紹介せよ、というものだった。2年ほど前、クルド人が増えているらしいからと誘われ、蕨駅周辺を知人たちと歩いたことがあった。その後、浅子佳英さんがコーディネートした展覧会「東京デザインテン」★1にエスニック・コミュニティをテーマに出展する機会があり、研究室メンバーと同地域を歩き直し、クルド人十数人にインタビューをした。

他方で、筆者の研究室ではこれをトウキョウ・アウターリングと称する都市研究のプロジェクトに位置づけていた。本稿ではこの「アウターリング」の視座について概要を述べ、後半にエスニック・コミュニティの今日的現象にふれることにしたい。

アウターリング

最初は漠然とした気づきだった。東京の都心と郊外との「あいだ」にはかなり複雑な様相をもつエリアがあるのに、まとまったリサーチも議論もないのではないか、と思ったのである。実際、東京論の流れを振り返ると、これまで江戸─東京論(下町・武家地─CBD/連続)や盛り場論(鉄道─界隈/モダニティ)と、現代社会学の郊外論(処女地─均質性/病理)とに、議論が集中していた。そのあいだのリングが、なぜか抜け落ちている。

リング、と呟いたら1920年代のシカゴ派社会学による一連の近代都市同心円モデルが気になりはじめた。彼らは、都市がコアから膨張していく過程で社会階層がバウムクーヘンのように層状の空間的パタンに編成されることをモデル化している。たとえば有名なバージェス・モデルは、(1)CBD(中心業務地区)を中心に置き、その外へ順に(2)zone in transition(遷移地帯、工場、新来移民のエスニック・マイノリティや不良住宅など)、(3)zone of working men's home(労働者住宅地帯、低家賃アパート等)、(4)residential zone(専用住宅地帯)、(5)commuters zone(通勤者地帯)、の4つのリングを重ねる★2 [fig.1]。どうやら、専門家たちのあいだではこの種の議論はとうの昔に旧時代の遺物のようになってしまったらしいし、筆者もそれを東京に当てはめようとは思わない。しかし、都市の辿った過程を、その複雑さを踏まえながらも全体性において捉えようとするこうした努力は、意外に私たちの東京論に欠けてきたものではないか。

fig.1──バージェス・モデル(1925)[引用出典=★2](クリックして拡大)

そして、筆者が考えたのは、東京それ自体の鼓動は、都心でも郊外でもなく、そのあいだに挟まる第三の場所に耳を当てるとよく聞こえるのではないか、ということだった。

バージェスらが問おうとしたのは、いわば人間の集積と競合が、むしろ人為的でない新たな「自然」となって都市なる組成体を成長させていくメカニズムだった。近代的な問いだ。しかし、この抽象論(理念型)は人々の相互関係という水準を超える大きな経済や権力を落としてしまっているし、人々は経済力をつけるほどコアから順に外側へ脱出していくというのも単純で機械的にすぎる。ここで考えたいのは、都市のフロンティア=際は必ずしも「より外側」にあるのではない、ということだ。あるいは、際をどこに見出すかによって、都市の理解が変わるというべきか。

少し歴史をたどってみると、都市が膨張や構造転換を遂げるために必要なドラスティックな変化の要求が、都心と郊外の「あいだ」に繰り返しもたらされるのを目撃できる。少なくとも、この地帯のジェネリックでない複雑さのよって来たるところを解き明かす価値はありそうだ。

この地帯を「アウターリング」と名づけた。山手線のリング周辺を内側の帯(インナーリング)とするなら、もうひとつ外側の帯だ。かつて朱引や墨引というかたちで輪郭が捉えられていた江戸市街地の、そのすぐ外側の地帯として、歴史的には押さえられる。江戸市街地の範囲はおおむね明治以降の東京市の範囲に引き継がれたから、1932年の合併(いわゆる大東京の誕生)までは私たちの言うアウターリングは「郡部」(+周辺県の一部)だった。だが、後述するようにそこが近世からすでに江戸を支える生産や流通の装置であったことを見逃してはいけない。市街地としての東京は、近代にそこをどのように変形させながら飲み込み、自身を変貌させていったのか。そして以後も、そこに度々新たな変形を要求してきたのではないか。ならば都心と郊外のあいだの第三の場所が描く複雑な様相は、東京の存立そのものの変化の波頭として見えてくるだろう。

第三の場所──上書きと堆積

「第三の場所」といえば、まだ紙媒体だった頃の『10+1』誌に日埜直彦さんが書いている「サードドメイン」の議論がある★3。それは、「山の手/下町」という東西軸に対して、ちょうどそれに分断されるように南と北に広がる近代の工業地帯=労働者の街=左翼文学の舞台を、文字どおり第三の場所として取り出すものだ。地形的には河川が要だ。

私たちのアウターリング研究は、この論と重なるところが大きい。実際、日埜さんには私たちの街歩きに(たくさんのゲスト諸氏とともに)欠かさず参加していただいている。けれど日埜さんの名誉のためにいえば、私たちのアウターリング・プロジェクトはうんと粗っぽい。東西/南北の軸や河川などの地形は意識しつつもまずは粗いリング状の網をかけてしまい、そこに転がるゴツゴツとした現象を何でもかき集めてみようというのだから。

ゴツゴツ、の一例をみてみよう。皇居から16キロメートルほどのところに位置する羽田には、かつては多摩川河口に猟師町(漁村)があり、葦と海苔の風景があり、海に伸びていく干潟を干拓した18世紀の新田の景観が広がっていたが[fig.2]、明治期には(どうやら成功とはいえなかったらしい)新田の開発者鈴木弥五右衛門の屋敷神がおもてへ飛び出て穴守稲荷神社となり、全国的な講組織を展開して繁栄し、その門前の花街を含む一大遊興地を生み出し、さらに鉄道資本も入ってレジャーランド化した。内陸側では耕地整理後の1930年代から工場進出の波を受け入れ、町工場と長屋のひしめく労働者の街になったが、戦後は連合国軍(米軍)の管理下に置かれた羽田飛行場の拡張のため、海辺の遊興地(=かつての新田)の一帯が48時間の期限内に移動を余儀なくされ、それが内陸側の工場町と漁村の隙間を埋めた。朝鮮戦争がはじまると空港には戦闘機が飛び交い、多摩川沿いの米軍管理下の工場から軍用車輌等が羽田を使って空輸された。羽田には空港闘争も反戦闘争も公害闘争もあった。現在の羽田は、漁業権を放棄した元漁民と、漁民から旋盤工などに転じて退職した夫と出稼ぎで地方から出てきた妻たちと、空港や巨大物流施設で働く外国人労働者たちと、マンションやミニ開発の戸建住宅に住む新住民と、......の社会的モザイクである。

fig.2──明治期の羽田(迅速測図「大森」、1/20,000、1906年測図)。干潟の干拓により層状に陸地が前進してきた。画面中央をタテに流れる水路(海老取川)より東側の一帯がのちの羽田空港になる。川の西にみえる集落が羽田猟師町。

暴力的な上書きが繰り返され、それでも層状の堆積が進む。日埜さんの東京論が主に近現代の都市風景の襞を腑分けするのに対して、私たちの街歩きは近世からの300年くらいのパースペクティブで見ていて、やはりいささか粗っぽい。だが、そうしたレンジで一つひとつの場所が受ける上書きと堆積のありように、「都市」が映し出されている可能性がある。

生産と流通、複雑な組成

羽田の例でわかるように、アウターリングは何よりも生産 productionの空間が植え付けられていく場所だった。同時に、江戸・東京と外部とをつなぐ「口 mouth」が組み込まれた、流通 logisticsの空間でもある。

江戸はもともと幕藩体制の首府をつくるために社会+空間のほとんどのエレメントを外部から移動・集積させて構築された政治経済システムだが、周辺部もまたけっして「自然な」ものではない。消費地を支える生産+流通のエレメントもまた人為的につくりださなければならなかった。所沢から吉祥寺・三鷹などにわたって広がる、きわめて長大な短冊状地割りをもった新田村の数々をみれば、それはよくわかる。羽田のみならず深川・品川などの東京内湾の漁村もまたシステマティックにつくりだされたものと考えたほうがいい。

こうした人為的な植え付け planting と創発的な醸成 emerging の反復が推し進めたこの都市の異常な膨張と極端な構造変化が、アウターリングに先鋭的に現われる。そこは時代とともに更新される生産・流通機能と、その担い手となる社会を、次々に受け入れ、激しく上書きされてきた。農民・漁民の文化、宗教と遊興の都市周縁的文化、労働者と左翼活動家や文学サークルの文化が重なった。足もとには、地域によって異なる多様な地形や農地のパタンがそのまま宅地化した独特の地割りがモザイクをなしている。荒川や多摩川の残した流路の痕跡と、災害を押さえ込む努力の跡とが拮抗する。近年ではジェネリックな再開発の風景が都心からも郊外からもアウターリングに押し寄せつつあるが、そこにはまだまだ豊かな複雑さの蓄積がある。

ここで訂正したい。先行研究がない、というのはやはり思い込みだ。地形学・地質学の蓄積、近世史の新田開発研究や猟師町研究、地理学の工場立地研究、文学の戦後文化サークル研究、各自治体史はもちろん、戦前・戦後の不良住宅地調査などの行政調査報告類......。市部/郡部の税負担のギャップが1910-20年代の雪崩を打つような郡部への宅地化進行のトリガーとして働いたことを指摘した中川理の『重税都市』も思い起こされる★4

そうした多くの一見つながりを持たない研究・資料群が、アウターリングという言葉のもとに集められ、街歩きの経験的知見が編み込まれることで、個々の場所がたどってきた歴史過程の複雑な機微が見えはじめる。2016年4月の「01 羽田」を皮切りに、「02 北千住」、「03 練馬」、「04 川口」、「05 丸子」と、これまでに5回街歩きを実施し、04まで4冊のレポート誌ができている[figs.3-5]

fig.3──レポート誌『TOKYO OUTER RING』01号(都市アウターリング研究体、明治大学建築史・建築論研究室、2016年7月)

fig.4──同、表面。(クリックして拡大)

fig.5──同、裏面。(クリックして拡大)

キューポラのある街──川口

川口・蕨のあたりもまた、皇居から16キロメートル程度である。羽田が南のサードドメインなら、こちらは北の、ということになろう。江戸時代はむろん荒川流域の農村地帯だが、中山道が通っており、板橋宿の次の蕨宿が置かれていた。江戸の「口」のひとつだ。すぐ東には日光街道も走り、その「口」としての千住や越谷もある。荒川をはさんで南側の赤羽や千住などの一帯は、1910-20年代に急速に工場と長屋で埋め尽くされていくのに対し、その対岸(北側)は戦中期ないし戦後高度成長期に本格的な工場立地と宅地化が進む。

しかし、川口には明治の殖産興業以来、日清・日露戦争を経て発展した鋳物産業がある。戦後の復興も早く、1947年に工場が700を超え、全国の生産量シェアの1/3を占めたといわれる川口の集積的な鋳物産業は1973年にピークを迎えた。高度成長期のその風景は、1962年公開の映画『キューポラのある街』に描かれる★5。キューポラとは銑鉄を溶かす円筒形の直立炉のことで、吉永小百合が演じる中学3年のジュンが、父親が鋳物工場を解雇されたためパチンコ屋でアルバイトをするものの重なる絶望のため遊び歩くようになり、北朝鮮への帰還問題に揺れる朝鮮人一家をはじめとする多様な出自の人々との交流を通じて自立を遂げていく物語だ。これがどの程度の紋切り的な誇張なのか判断がつかないが、工場集積と労働者の街であった川口は多民族的な状況に慣れており、そのことが90年以降のクルド人集住のひとつの背景になったと多くの人が語っている。

東京への国際移住、その第3フェーズ

次に、東京におけるエスニック・コミュニティ形成の歴史的段階を考えてみよう★6

最初は幕末、すなわち19世紀中盤からの横浜での華人街形成。次の大きな波は、1970年代末以後の中国・韓国の国境自由化の流れを契機とするいわゆるニューカマーズたちの急速な来日を、新大久保や池袋などのエリアが受け入れていくプロセスだった。第1フェーズは都市の同心円モデルには位置づけようがないが、第2フェーズの新大久保・池袋などはインナーリング(あるいはインナーシティとも呼ばれる)にあり、バージェス・モデルの(2)遷移地帯もまたニューカマーズの出身地別コミュニティの存在に特徴づけられていた。

戦前からインナーリングの盛り場やアウターリングの工場町などにチャイニーズやコリアンの集住がみられたはずだが、70年代末以降の動向は大久保や池袋の「レセプションエリア」としての中心性を押し上げた。新規移住者たちはまずそこに入り、相互扶助ネットワークに迎えられ、異国に適応しながらそれぞれの道を選ぶ。飲食店・食材店が多く、エスニシティの可視性は非常に高い。

ところが90年代以降の新しいエスニック・コミュニティは、こうした可視性が弱い。小規模で密度の低い集住地が、都心ではなくその外側に多数生じており、いわば偏在化の傾向を示しているといわれる。私たちの言葉でいえば、アウターリングの地帯に、いままで予期しなかった国や地域の人々が住みはじめている。

2年ほど前、西葛西(ここもアウターリング)にインド人が2,000─3,000人ほど住むというので歩いてみたが、インド料理屋の数も特に目立つわけではなく、肩透かしを食った。90年代にインド政府の政策で育てられたIT技術者がアメリカのテロや不況で雇用が不安定化して日本に向かった、という経緯もある。彼らは大手町などのオフィスに通勤する専門職層であって、団地などに住む。盛り場はない。近年アウターリング地帯に増えている中国人移住者も、日本留学を経て企業に務めるサラリーマン層が多く、必ずしも可視的でない。 同様に、川口・蕨あたりを歩いても、クルドタウンにやってきたという感じはしない。たしかに駅にはそれらしき人々を見かけるが、クルド人の料理屋はケバブ屋が2軒あるだけ。一年に一度の新年祭(ネウロズ祭)で、一堂に会した彼らを見て、はじめてその存在感に驚かされる[fig.6]

fig.6──ネウロズ祭(クルドの新年祭)[川口駅キューポラ広場、2017年3月20日筆者撮影]

移住のネットワーク

クルド人へのインタビューの内容を少しだけ紹介しよう。彼らのほとんどは、さきにふれたインド人や中国人と違って、政治難民である。しかし、日本政府はクルド人に難民認定を出さず、そのため就業や社会保障の面で彼らの大部分は不安定な境遇にある。こうしたなか、日本人女性と結婚した一部のクルド人は特別な位置にある。彼らは配偶者資格で永住でき、建物解体業などを営み、そのほかの、在留資格はないが難民申請中のため「仮滞在」(就労可)、「仮放免」(就労不可)の立場にある多数のクルド人たちを雇用ないし扶養しているらしいことが、インタビュー時の彼らの語りの向こうに垣間見えた[fig.7]。調べてみると埼玉県の解体業者登録にはクルド人経営かと思われるものが30ほどもある。これも一種の相互扶助システムだが、そもそも2,000人前後といわれる彼ら埼玉県南部在住クルド人は、個人的関係の連鎖だけでほぼ全員がつながっているという。現在40─50代の世代では兄弟が数人から十数人もあり、その半分ないし大部分がすでに日本にいる、という人もあったが、彼らに配偶者や子どもがいる場合を考えれば、(容易に察せられるように)個人的関係をつたうだけで広大な関係世界が広がる[fig.8]。最初のクルド人が川口に入ったのが90年頃。彼が降り立ってトルコと日本の間に引いた一本の「線」が大きなネットワークに育ち、日本には彼らのアソシエーションや支援団体ができ、海の向こうではトルコからシリアやイラクへとクルド人移住者の出身地が国境を越え始めている。


fig.7──川口市在住クルド人A氏の家族。A氏(■で示す)は2012年に来日し、妻・息子・義弟と4人でアパート暮らし。11人兄弟のうち9人が日本在住。日本人妻を持つ兄があり、彼が経営する建築解体業の会社で仕事をしている。[明治大学建築史・建築論研究室作成]


fig.8──川口市在住クルド人B氏の家族。B氏(■で示す)は1993年に来日して2年滞在したが、川口に住む末の妹と夫を頼って2015年に再来日。現在はアパートに弟と4人暮らしだが、近く妻と娘を呼び寄せて家族で暮らす計画。[明治大学建築史・建築論研究室作成]

グローバルな人的・情報的モビリティの増大、そして世界各地の不確実な政治情勢のもとでは、今後も予期せぬ国・地域の人々の集住地がいつのまにか東京のそこここに生まれていた、なんてことがありうる。しかし、どこにでも、とはいかないだろう。地価・家賃が安く、都心や仕事場へのアクセスもよく、相対的に複雑な組成をもつ社会が選ばれるだろう。東京と接続する世界の偶有的な変化が、こうしてアウターリングに顔を出している。

むすびに

本稿では、巨大都市の鼓動に最も敏感に震える地帯としてのアウターリングを、都心と郊外にはさまれた、いわば内なる際(波頭)として捉える可能性を考えた。実際には、都市の変化を体現する際(前線)はもっと遍在しているし、アウターリングをそう無批判に特権化するわけにもいかない。だが、当面はこの地帯の歴史を広く駈けずりまわって、個々の場所に及んだ変化の規模・リズムと堆積の強度を測ってみたいと思うのである。



★1──「東京デザインテン」(東京ミッドタウン・デザインハブ、2017年4月14日-5月2日)
★2──Ernest W. Burgess, "The Growth of the City: An Introduction to a Research Project", in Park+Burgess, The City, University of Chicago Press, 1925. ここでは松本康編『都市社会学セレクション第1巻 近代アーバニズム』(日本評論社、2011)、ロバート・E・L・フェアリス(奥田道大+広田康生訳)『シカゴ・ソシオロジー1920-1932』(ハーベスト社、1990)を参照。
★3──日埜直彦「山の手/下町/サード・ドメイン」(『10+1』No.46、LIXIL出版、2007)
★4──中川理『重税都市──もうひとつの郊外住宅史』(住まいの図書館出版局、1990)
★5──映画『キューポラのある街』(浦山桐郎監督、今村昌平+浦山桐郎脚本、日活配給、1962)
★6──現代の国際移住の諸条件を社会学的に捉えた重要な研究として、田嶋淳子『国際移住の社会学──東アジアのグローバル化を考える』(明石書店、2010)参照。


青井哲人(あおい・あきひと)
1970年生まれ。建築史・都市史。明治大学准教授。著書=『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』(アセテート、2007)、『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、2005)、『モダニスト再考[日本編]──建築の20世紀はここから始まった』(共著、彰国社、2017)、『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』(共著、LIXIL出版、2015)ほか。http://d.hatena.ne.jp/a_aoi/


201709

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