非施設型の空間から考える建築の社会性
──「資源」とふるまいのインタラクション

塚本由晴(建築家、東京工業大学大学院教授、アトリエ・ワン主宰)

施設型空間と非施設型空間

アトリエ・ワンは美術展の枠組みを使って、まちのなかに人々が領有する小さな場を作る社会実験を行なってきた。のちにその作品群は「マイクロ・パブリック・スペース」とよばれるようになった。またまちづくりで地元の人々との対話を重ねたり、被災した漁村の復興プランを集落の人たちと検討してきた。こうした活動を通して、人々やもののふるまいを勇気づけ、束ねることでつくられる空間は、近代のビルディング・タイプでは掬えないふるまいを許容しているという思いを強くしている。近代のビルディング・タイプのもとに生まれた施設型の空間は、教育・文化・医療など、近代社会をつくるうえで必要な概念が学校・図書館・病院などとして物質化したもの。明治の開国期に、先に近代化を遂げた国々と不平等条約を締結せざるをえなかった日本が、欧米に追いつくために導入された、概念が先行する空間である。そういう政治的思惑はあったにせよ、はじめて自分の街に図書館ができるということは、夢のような空間に感じられたはずである。手に取ることができなかった書物に自由に触れられるようになり、書籍を通じて人々が関心を共有できるようになったのだから。 近代社会の形成に欠かせないこうしたビルディング・タイプは、どの市町村にも建設され、戦後復興の起爆剤になった。こうして建設産業のメニューに組み込まれた結果、施設の飽和状態が訪れても、産業を維持するための施設をつくらなければならなくなった。こうして施設がもたらすはずの夢や希望は色あせ、なんのために建てるのか、公金の無駄遣いだとハコモノ批判が巻き起こった。それと並行するように、施設があってこそ身につけてきた近代的ふるまいも、退屈なものと感じられはじめたのではないか。近年のまちづくりで、リノベーションやアート・プロジェクトなどの手法が広く関心を呼んでいるのは、概念よりも、ものや人々のふるまいが先行する空間への欲求が高まっているからだろう。その背景には20世紀後半に過剰につくりつづけられた建物が、ストック化してきた現実があるのではあるが。

人やもののふるまいの関係による空間は、20世紀型の施設型の空間に比べれば規模も小さく、社会的に見れば脆弱である。若い建築家たちのそうした取り組みに対して批判する向きもある。そこにどのような価値を見出していくかは、歴史的な想像力次第と言ってもよい。例えばそれらを「非施設型」と呼ぶことによって、逆に「施設型」を包囲してみる。施設型の空間に対する批判を超えて、それを生み出してきた20世紀の建築の産業化、および生産性重視の事物のネットワークを批評する。そんな非施設型の空間が成立する/させる事物のネットワークのあり方が、これからの社会の豊かさを考えるうえで重要になるはずだ。風景や地域経済など、それぞれの環境と均衡した人々のなりわいの持続性の問題として、事物のネットワークは再検討されなければならない。

ふるまいと「資源」

アトリエ・ワン『コモナリティーズ
──ふるまいの生産』
(LIXIL出版、2014)
『コモナリティーズ』では、歴史的に構成されるある条件のなかにスキルを持った人々の身体が投入されれば、そこに高い確率で特定のふるまいが生産されるという気づきをテーマとしたが、その条件のなかでも特に重要なのは身の回りにある「資源」と呼ぶことができるものではないかと考えるようになった。そのなかには、生産性の観点から編成された産業化による事物のネットワークにおいては価値が認められないがために、アクセスが妨げられてきたものものも多く含まれる。人々のふるまいというのは、こうした身の回りの資源に対するインタラクションである。だから資源に対するアクセシビリティが確保されないところには、そもそもふるまいは生産されない。これからの豊かさは、アクセスできる身の回りの「資源」の多様性であり、それとのインタラクションの効果が最大化されることであり、その繰り返しが「資源」を蕩尽しないという条件を満たさなければならない。

『コモナリティーズ』で示したさまざまな例(コペンハーゲンの橋、リュクサンブール公園の椅子、イビラプエラ公園のキャノピー、天壇公園の朝......)は、ふるまいを共有する空間のコレクションであり、身の回りの「資源」にアクセスするふるまいのコレクションである。だからこそいろいろな人が関わり共有することができる。「資源」とのインタラクションによるパフォーマンスが最大化されるなら、ふるまいも洗練されるはずであり、そのスキルに熟練や卓越がありうるということである。つまりふるまいは、成長の余地を人々に与える。だからスキルを介して教えあい学びあう関係が生まれる。

こうした認識は、日本の現在に特殊なものではなく、世界的なうねりとしても広がっている。

建築の社会性

2016年開催のヴェネチア・ビエンナーレ(第15回、2016年5月28日-11月27日)は、貧困問題に建築的回答を与え、社会改善へと導く建築家として知られるチリのアレハンドロ・アラヴェナが総合ディレクターを務めることになった。総合テーマは「Reporting from the Front」。世界各国の建築家たちの最前線での奮闘が報告されることになっている。そのなかには身の回りの「資源」へのアクセスを妨げている、事物のネットワークがつくる障壁を下げる挑戦も含まれるだろう。

建築の表現は、一回限りの刹那ではなく、持続的であるべきだ。社会にサービスを提供するものと考えるだけでは、視野は広がらない。そのためにも、「いま・ここ」だけではない背景を引っぱって来たいところ。われわれにとって世界は大きすぎ、複雑すぎて全体が把握できないが、建物を通して、それを成立させる社会システムやネットワークを問題にすることができる。建築の社会性はそういうところにある。

「資源」に対してアクセシビリティが開かれていれば、「資源」とのインタラクションによりふるまいは繰り返し再生産される。その意味でのふるまいは、必ずしも「生産性」を問題にする必要はない。むしろ「遊戯性」-「生産性」を往復することが、ふるまいのパフォーマンスを高めていく。アトリエ・ワンが設計した《みやしたこうえん》(2011)は渋谷における潜在的なスポーツのふるまい=「遊戯性」を顕在化する非施設型空間の試みであったが、渋谷区は再び施設型空間につくり直す決定を下した(2019年施設開業)。施設型の空間の強みは、「概念」が先行し、説明言語も共有されているために支持を集めやすく、関係各所も予算の付け方を知っていることである。「東京オリンピック」を前にして「渋谷」の一等地を平屋+屋上公園で使うのでは経済生産性が低いことは理解できる。だがパブリックな土地を生産性を基準に見ることは、「資源」へのアクセシビリティを狭めることにもなる。行政がマーケットのキャッチアップを目指すならすべての空間は施設型にとって変わられてしまう。

《カナル・スイマーズ・クラブ》
(アトリエ・ワン+Dertien 12)

《カナル・スイマーズ・クラブ》は、ブルージュ・トリエンナーレ(5月20日-10月18日)にあわせて設計した、水面に浮かぶテンポラリーな桟橋だ。ブルージュは14世紀から国際貿易都市として栄えた街で、今でも古い街並みがきれいに維持され、世界遺産にも指定されている。人口10万人のブルージュ市を訪れる旅行者は、年間500万人を超え、街の広場やカフェを占拠している。市民のための新しいパブリック・スペースを見つけることが、トリエンナーレの課題でもあった。市内に張り巡らされた運河は、水質悪化のため40年間遊泳が禁止されてきたが、下水道の整備が進んだおかげで水質は改善され、2015年の夏、ついに遊泳禁止が解かれることになった。そこで、人々が運河で泳ぐことを勇気づけるための、装置的空間が必要だと考えた。もちろん運河で泳ぐだけならひとりでもできる。でもそれは奇矯な行為とみなされかねない。ところが大勢で泳げば、夏の風物詩としての風景になり、水質改善のバロメーターになる。さらに浮桟橋のようなしつらえが、「クラブ」と名付けられれば、すでに愛好家が大勢いるようなフィクションが立ち上がる。40年以上前にここで泳いでいたティーンエージャーはまだ50代、60代。まだまだ泳ぐことができる。孫に泳ぎを教えることもできる。泳ぎを身につけていれば、市民だろうが観光客だろうが、誰でも参加できる。世代や立場を超えてふるまいが共有されていく。《カナル・スイマーズ・クラブ》はすなわち、水質汚染により妨げられてきた、運河水面へのアクセシビリティを回復し、「泳ぎ」という水とのインタラクションを最大化し、人々のふるまいを勇気づける非施設型の空間である。来年の夏は場所を変えて再びブルージュの水面に人々を誘うことになりうそうだ。





《カナル・スイマーズ・クラブ》(アトリエ・ワン+Dertien 12)

「アーバン・トレイル」

ブルージュでは、もうひとつとても興味深い経験をした。「アーバン・トレイル」という、マルクト広場を起点に、道路だけではなく、いくつもの中庭や歴史博物館、市庁舎など公共建築のなかを約10km走り抜けるイベントだ。ブルージュでは街路型の建築がブロックの外周を囲み、内側に多くの中庭が抱え込まれている。病院、老人ホーム、小学校といった施設にあわせて、各中庭には、聴診器を持った看護師たち、車椅子に乗った高齢者たち、ドラムをたたく子どもたちが待っていて、走者を囃し立ててくれる。橋のところにはミュージシャン。走りながら街のどこに誰がいて何をしているのかが見えてくるしかけになっている。近代的な社会を形成するうえで必要な施設型の空間は、その専門性ゆえに人々を隔離する障壁をつくりがちだが、「アーバン・トレイル」はイベントの力を借りてこの障壁を破り、隔てられていた人々のふるまいが出会う空間となる。ゴールした後は旧証券取引所で朝食。列をつくって紙袋にパンとバナナとドリンクを入れてもらうのだが、これが緊急時の避難所でのふるまいの予行演習になっていると同時に、食品メーカーをスポーツ大会のスポンサーに招き入れる根拠にもなっていて、非常によく練られた非施設型の空間だと感じ入った。東京でもやったら面白いのではないだろうか。











「アーバン・トレイル」
写真はいずれも筆者提供

総じて言えば、ブルージュの人々は、14世紀以来の運河や施設、街並みという限られた「資源」を利用して、新しいふるまいやアトラクションを生み出すスキルに長けているといえるだろう。それに比べると、日本の都市空間は「生産性」に拘泥しすぎて、身の回りにある「資源」へのアクセシビリティが妨げられているきらいがある。「遊戯性」に価値を見出せば、身の回りの「資源」とのインタラクションによるふるまいは、もっと開発されるはずである。そこで生み出されたふるまいやアトラクションが、建物を更新することとは別の経済に結びつき、持続性を獲得するようになれば、ようやく21世紀型の都市空間が日本にも現われることになるだろう。問題は、東北の復興や、東京オリンピックの計画に、残念ながらそういう発想がほとんど見られないということである。


塚本由晴 (つかもと・よしはる)
1965年生まれ。建築家、東京工業大学大学院教授。貝島桃代とアトリエ・ワン主宰。アトリエ・ワンの作品=《ハウス&アトリエ・ワン》(2006)、《みやしたこうえん》(2011)、《BMW Guggenheim Lab》(2011)、《Rue Ribiere》(2011)ほか。アトリエ・ワンの著書=『空間の響き/響きの空間』(INAX出版、2009)、『Behaviorology』(Rizzoli、2010)、『WindowScape2 窓と街並の系譜学』(フィルムアート社、2014)、『図解アトリエ・ワン2』(TOTO出版、2014)、『コモナリティーズ』(LIXIL出版、2014)ほか。


201601

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