【第2回】[インタヴュー]新しい「まちデザイン」を考えるための、アーバンデザイン20年史

中野恒明(アプル総合計画事務所)+太田浩史+乾久美子+中島直人
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左から、中野恒明氏、太田浩史氏、乾久美子氏

東大都市工~槇総合計画事務所時代

編集────隔月連載第2回め「新しい『まちデザイン』を考える 2」では、これまでのアーバンデザインはどのように都市と接し何を実現していったかという関心をめぐって、都市環境デザイナー・都市プランナーであり、アプル総合計画事務所所長の中野恒明氏にお話を伺いたいと思っています。殊、実感として都市の様相が変わっていった1980年代末以降に、都市環境デザイナーは都市計画にどのようなテーマを持ち込み、どのような実績を積まれ、あるいは方法論の転換をたどられてきたのか、主にこの約20年の歴史を伺いながら、これからの「まちデザイン」を考える滋養としたいと思います。よろしくお願いいたします。

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ジェーン・ジェイコブズ
『The Death and
Life of Great American Cities』
中野恒明──僕は今年で60歳になります。建築家の大野秀敏とともにアプル総合計画事務所を設立して27年、芝浦工業大学で教え始めて6年半。いまは自分なりに少しずつ書き物をしていましてね。よく考えると、僕より上の世代をCIAM派のプランナーとすると、僕は都市デザイン・アーバンデザインの端境期に位置づけられる世代なのかなと思います。大学を卒業したのは、ちょうどオイルショックの年でした。
大学2年のときに、江東防災拠点構想が発表された直後で、学生なりに興味を持ち、東京の下町・京島の近くに2年間合宿しサーヴェイしたことや、その仲間たちとジェーン・ジェイコブズの本(原著)を読み回したことが、その後都市デザイン・アーバンデザインに関係していくことに影響したのだと思います。
僕は山口県宇部市にある片田舎に生まれ育ちました。町の中心部から12kmほど離れていて、電車かバスで通っていました。当時の私のフィールドは、狭い路地だった。そこへきて大学入学を期に東京に出てきて、隅田という居心地のよい場所を見つけた。そして、なぜこれが都市計画の観点ではまずいとされるのかという問いから研究がスタートしました。大学3年になって選んだのは大谷幸夫先生の研究室でした。それから槇文彦さんの事務所に入所するのですが、僕は、建築家を目指していたんですね。ところが事務所では、アーバンデザイン・セクションというチームがあって、そこで都市計画のプロジェクトをなんでもやらされたんですね。

太田浩史──どのような都市計画をなさっていたのですか?

中野──最初にやったのは、「横浜金沢シーサイドタウン」。並木1丁目のニュータウン開発で、京の町家をひとつのモデルにして、大通り、通り、小路、路地という、道路システムにヒエラルキーのある町をつくりました。基本的に低層高密度で道路は歩者共存。当時ではかなり画期的な計画でした。学生のときの教科書では、ニュータウンといえば「港北ニュータウン」「多摩ニュータウン」が基本的なモデルとされ、スーパーブロックのなかに曲線的な歩行者専用道路と区画道路、プロムナードがあるという構成でした。一方で、「横浜金沢シーサイドタウン」では小さな街区にして路地をつくるものだった。
僕は、22歳の入社早々に道路の設計の見直しを担当させられた。以前の計画は建築の方々が線を描いた定規と円弧定規の線形で、どう見ても不規則、横浜市の道路局では引き受けてくれない。修正案を出したが結果は手遅れ、当時の市の窓口調整役だった港湾局の係長さん、小沢恵一さんは後の都市計画局長となられた人でしたね。いろいろ教えていただきました。
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槇文彦
『見えがくれする都市──江戸から東京へ』
あの頃、槇事務所で一緒にやっていたのは、チーフは長島孝一さん、そして中村勉さん、元倉眞琴さん、栗生明さんたち、そこに僕が入りました。それが横浜市の都市デザイン室との付き合いの始まりでした。北沢猛君が市役所に入る3年前ですね。
ちょうどあの頃の槇さんは、どちらかというとメガストラクチャー的な都市像に幻滅を感じていて、わりと小さな空間に興味を持っていた時期なんじゃないのかな。そのあとすぐに「見えがくれする都市」の研究がはじまった。これはその後書籍(『見えがくれする都市──江戸から東京へ』SD選書、1980)にもなりました。そのチームに途中から僕もどうかと言われたんだけど、設計がやりたいと言ったら、すんなり聞き入れてくれました。チームに入っていたら別の人生だったのかなと思いますね(笑)。
槇事務所のアーバンデザインのチームは、長島さんが独立されて、保科秀明さんがJICAに行かれ、25歳のとき僕ひとりになりまして、32歳までの間、都市工の2人の後輩とチームをまとめあげていきました。その間に、いろいろ再開発プロジェクトもやりました。
槇さんには、槇さんの教え子の方をたくさん紹介してもらいました。曽根幸一さん、林泰義さん、高橋志保彦さん、再開発は竹中工務店の方といった面目です。そういう方々と共同作業をやらせていただきながら、10年間に49のプロジェクトをやりました。なぜそんなにあったかというと、都市系のプロジェクトは金額は大きくはないわりに、時間がかかるかわけです。ひとつのプロジェクトに専念できなくて、いくつかパラレルに動いていた。僕はパラレルにやる能力があったらしくて、なんでも押し込まれてしまって(笑)。そこでいざ絵を描く段階になると、建築のチーム、大野さんや栗生さん、山本圭介さん、沢岡清秀さんなどのメンバーと組んで、なんでもやらされたということです(笑)。
槇事務所ができて10年めに僕が入って、20年めまでの10年間いました。その間仕事がないときは、槇事務所のアーバンデザイン・セクションについての卒業論文のようなものを80年につくりました。ハーヴァード時代のムーブメントシステムや、槇さんが書いたレポートを読んだりして、槇さんのアメリカ時代から僕がやめるまでの間の思考プロセスを頭にインプットさせてもらった。 槇さんが偉いのは、槇さんひとりがつくるのではなくて、小沢明さん、長島さん、福沢健二さんや次から次に入ってくる人の意見を聞き入れていたところです。当然中村勉さんも、元倉さん、栗生さんなどの意見を吸収される方だった。私もそのひとりで、結構任せていただいたことは覚えています。

太田──こんなにたくさんの開発に関わられていたとは知りませんでした。作品集には出てこないですよね。

中野──あまり世に出ていないでしょ? そのなかでも、建築の作品だけど、アーバンデザイン的にどう捉えてきたのかというのもまとめました。千里センタービル、百草センター、立正大学などは私が入る前の作品ですね。また浅田孝さんや田村明さんとも大阪のプロジェクトでご一緒されている。横浜の海の公園(八景島)、この形は槇事務所でつくり、そのまま埋め立てられて地図になっています。決めたのは、中村さんと大野さん、山本さん。そういう歴史が刻まれている。僕が槇事務所のときに担当したマレーシア・コタキナバルのスポーツコンプレックスのプロジェクトでは、交通計画そして解析までもやりました。

太田──なんでもやられているのですね(笑)。

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アプル総合計画事務所「新潟駅・駅前広場競技設計 南口広場実施設計」
(アプル総合計画事務所 会社概要より)

中野──そう、なんでもやらされましたよ。交通計画は大学では途中で履修放棄し単位をとっていなかったんだけど、一から独学ですね。その後独立してから道路系の仕事をしたときは、交通コンサルを説き伏せるような仕事の仕方をしているんです。たとえば堀越英嗣さん、佐々木葉二さんとの協同の新潟駅の駅舎・駅前広場のコンペも交通計画は僕が先にやって、パシフィックコンサルタントさんに解析チェックさせて。

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『都市住宅』

事務所を辞める直前の82~83年に、槇さんから頼まれて、雑誌『都市住宅』の編集委員会のメンバーに入って1年半くらいアーバンデザインの議論をさせていただきました。六鹿正治、陣内秀信、北沢猛、そして僕。ちょうど廃刊になった84年にアプルをつくったんです。

アプル総合設計事務所の立ち上げ以降

中野──事務所をつくったのは32歳のときで、当時はアーバンデザインではなくプランナーとして飯を食うしかないと思っていました。横浜ではアーバンデザインの仕事は面白くさせていただいたのですが。大野が建築家で僕はプランナーという職能で生きようと始めたのが、いまのアプルです。最初は世田谷の住民参加のまちづくりに関わったりした。そのうち土木の計画学チームが景観研究を立ち上げる頃で、埼玉大の窪田陽一さんに引っ張り込まれて、それで初めて景観グループの中村良夫さん、篠原修さんたちと接点ができた。僕の横浜のアーバンデザインで公共空間の設計をしていた実務経験を買われた訳ですね。
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『街路の景観設計』
そのなかで『街路の景観設計』(技報堂出版、1985)という本をまとめて、全国をどさ回りしに行くことになりました。全国各地で勉強会をやって本を売り込み、シンパをつくっていこうと。僕は生まれが山口なので博多に行って話すことになり、そのとき壇上で僕の前に北九州市の係長さんが話されたのですが、お互いに共鳴し、帰り際ちょっと名刺交換して、地元に住む私の高校時代の同期生も一緒に一杯やった。係長さんとは、そのうち一緒に仕事をしましょう、と別れたが、それが後年、1989年から現在も継続する「門司港」のプロジェクトに関わるきっかけでした。「アメリカの大手設計事務所RTKLが建築をやるから、中野さん公共デザインをやって」と言われて。しかし結局、RTKLが1年で撤退して、その後は僕が面倒を見ることになりました。僕のライフワークでもあります。門司港は戦災復興の区画整理をやっていますが、狭い路地もあり、古いストックがある。ジェーン・ジェイコブズのいう古い建物の必要性が具現化しているまちだったし、僕は古い建物の保存にかなり関わりましたね。外部空間の設計も含めて僕のやりたかったことをやらせていただいたわけです。

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アプル総合設計事務所「門司港地区の総合的まちづくり計画および設計」
(アプル総合計画事務所 会社概要より)

太田──門司港は、建物を取り除いたり、駐車場を駅の横につくったり、ヴォリューム操作や建築的なスケールまでもつくり込まれていますね。

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アプル総合設計事務所「門司港地区の総合的まちづくり計画および設計」
(アプル総合計画事務所 会社概要より)

中野──それは当然です、槇事務所にいたので。アプルも大野が設計チーフで僕は管理建築士としてサポートしていきましたから。
いまは別々の事務所ですが、同じビルの部屋をシェアしている関係で、最近、彼が海外の都市計画を、僕が国内の建築をやっているという面白い逆転が起きているんです。僕は職業柄都市デザイナーとか肩書きを使っているので、若い人に建築を任せて、コントロールをしている。いまはコンペでとった長野県の東御市庁舎の現場をやっています。庁舎を新しいところに建て直す計画をストップして、古い建物を残してつなぎ合わせる。新築は一棟しかつくらず、全体の機能の再配置をして一連のシビックセンターとしてつくり替えるという3カ年計画。1期は工事をして、いまは2期の設計に入っています。

太田──街路設計ではなく、建築もですか?

中野──ええ、街路ではなく建築です。外部空間としては、建物を解体した後の広場をこれからやっていくところです。照明デザインは近田玲子さんにお願いしています。
これから動き出すのが、北海道のある市で、僕が都市再生の整備委員会の委員長をして、全体の構想をまとめあげたものが5年くらい経って動き始めています。古いデパートが撤退したあとの4万平米ある駅前のビルを市に買わせてコンバージョンして修繕しようというプロジェクトです。都市的なアプローチで建築に入るというこだわりは持っていますね。 そして、横浜山下町の再開発プロジェクト「神奈川芸術劇場+NHK横浜新放送会館の複合施設」は今春オープンしたばかりですが、2人の建築家、香山壽夫さん、大野さん、それに都市デザイン担当責任者として私が、コンペで1等になり足かけ5年かかりました。周辺街区も含めた全体のデザイン調整と歴史的な遺構の保存は私が担当しました。母屋は香山さんと大野さんがやっています。こうした建築家との共同は楽しい。自分は建築家と共同するアーバンデザイナーとしての面白さを感じています。

「アーバンデザイン」から「都市環境デザイン」へ

太田──しかしながら、建築と都市設計とバランスをとりながら両方の提案ができる事務所って、なかなか日本には育っていませんね。

中野──育てていないからでしょうね。海外はいくらでもあるんですけどね。

太田──僕も東京大学生産技術研究所で一昨年から教え始めたのですが、建築の学生は建築のことを覚えることで精一杯だし、情報源は建築雑誌だけですので、都市全般に興味がなくて、事例も知らない。

中野──大学の教育のなかでぽっかりと抜け落ちていますね。ある意味で東大が建築と都市工と分離したときからの宿命を背負っているのかなという気もしています。そういう点、早稲田大などにも期待をしたいのだけれど、結局まだ同じ。それと、都市があまりにも複雑化しすぎていて、面白くないんですよ。僕もいろんな都市プロジェクトには関わっているけれど、僕の世代くらいになると、やることは先輩たちが敷いたレールの後始末になる。大きなストラクチャーは先輩たちがつくりあげて、そのなかでお化粧をやってと言われても、興味を持てないですよね。正直、末期的症状を起こしている都市があまりにも多すぎる。
槇事務所がいいところは、つねに海外の情報を入れてくれるし、その刺激でつい行きたくなっちゃう。僕は1974年に大学を出て、25歳からほぼ毎年貯金を溜めては海外に行って、当時の最先端のプロジェクトを見てきた。
1970年代は欧米の一部の都市で、近代都市計画の理論の問題点を切実に感じていた時期。ジェーン・ジェイコブズもその流れのひとつ。そこでヨーロッパの、イタリア、ドイツ、フランス、イギリスはみな修正して、歩行者空間整備も土地利用の混在も認めていったのです。しかしどういうわけか日本は1968(昭和43)年に都市計画法の改正をして、全国に近代都市計画理論を強制的に当てはめた。
市街化区域を膨大なエリアに定め、住民参加として地主さんの意見を聞いて、都市が発展する時代ですからここまで大きくしたほうが得だよ、と規制を放棄していく。このように、ある意味での成長限界が地方都市には定められていない。なおかつ中心市街地は「真っ赤な色塗り」と僕は言うけれど、商業地に指定して高容積なビルを建て、そこに広い道路計画をぶち込む。それが10年20年30年と時間が経つうちに中心市街地から人がいなくなる。これが中心市街地の最大の衰退原因です。
そのなかでも港町というのは日本全国で元気がいいほうなんですよ。なぜかというと、地形的な土地利用規制がかかっているから。急峻で平坦地が狭い。だから稠密なコミュニティや都市が維持されている。一方で、北関東を含めた地形の制約がないところは、どこにでも都市が増殖して住宅地が広がっていきます。それをサポートするのが道路だった。それと中心部の日影規制を撤廃したことも関係している。高い建物をつくって生活環境を破壊してしまったことが、日本の都市計画の最大の失敗かなと僕は思っている。
いままでのアーバンデザインは、何だったのか。僕が学生だったときの教科書にはCIAM派のアーバンデザインというものがあった。僕はいちはやく槇さんに接したことでパッとリセットができたけれど、ほとんどの都市に関わってきたプランナーの方やコンサルタントの方はリセットしないで、やればやるほど補助金がつくようなプロジェクトに邁進されていかれたような気がします。 いま僕は、いろんな都市の中心市街地の再生計画を見ているけれど、中心部を区画整理して道を広げ、公共事業を入れて再開発をする、そこに借り上げ公営住宅、高容積のビルをつくっていく。このように、巨大な再開発ビルをつくっている都市がいくつかありますよね。いままで何もなかったのに、都市再生という名の下に駅前に突然高層ビルがポツンと建って。ある意味では誰かの理想都市なんだろうけど。

太田──岐阜にもありますね。駅前にボーンと。

中野──そう。ここ10年くらいでしょうか。それを止めさせる運動をしないといけない。もっと早くから声高に運動をするべきでした。でも、まだCIAM派のプランナーの方たちが現役で元気があった時代でしたからね。そろそろ俺の出番かなと思ったら、私も60歳になるからね。ちょっと、焦ってきています。

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『プロセスアーキテクチュア』

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『SD』

太田──僕は90年代のはじめに学生期を過ごしました。門司港や横浜の動きをはじめ、「アーバンデザイン」のニュースは日常的に入ってきたし、『プロセスアーキテクチュア』や『SD』などの雑誌でもそういう特集はありました。いまから考えると日本の都市開発が興奮状態にあったのかもしれませんが、アーバンデザインがこれから日本に定着していくんだろうなと思って、大野研に卒論生として入ったんです。
いまの学生は直接的なメディアがないこともあるんですが、日本の事例となると、商店街やリノベーションとか、都市のなかの小さい場所をどう使うか、どうアクションするか、またどういうパブリックアートを入れるかなどの議論ばかりで、都市全体の配置を変えるという議論には触れていない。それがちょっと残念なのです。前々から中島直人さんとは話をしていましたが、メディアがないというのが最初の問題。もうひとつは根本的な話で、そもそもアーバンデザインが社会的に必要とされているか、という問題があると思っています。

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ラ・デファンス(wikiより引用)

中野──僕はいま「都市デザイン」や「アーバンデザイン」という言葉を使わないようにしているんです。かつてのアーバンデザインと言われている、横浜の「みなとみらい21」やパリの「ラ・デファンス」がひとつのアーバンデザインの理想像になっているように思いますが、僕の考えはちょっと違う。そこで、授業では「都市環境デザイン」という言葉を使っています。
そういう意味では、僕はジェーン・ジェイコブズ的な考えを、もう一度アーバンデザインの中心に据えなければと思っていて、「土地利用計画のなかで、住まうということをもう一度議論しませんか。都市に住機能を戻さない限り都市は再生しない」と信念を持っていろんなところで話しているし、実際そういうものをつくろうと話している。水辺、歩行者空間、歴史的な建造物の保存、そして緑など、肌理の細かいマイクロプランニングを含めたかたちでの新たなアーバンデザインのイメージを再構築していかなければならないという考えです。アメリカ型の都市のイメージではなく、ヨーロッパ型の都市を日本でつくることはできるか。中心市街地はそもそも歴史的なまちだったんだからその骨格を守って、区画整理をせず、古い路地を残せと声高に言っている。路地は消防車が入らなくて危険だ、と言われれば、残したままで燃えにくいまちにすればよい、と言い返す。それが僕にとっての新たなアーバンデザインで、そうなると建築までやらなければならない。いままで道路までは都市だ、土木だと言って、建築は建築だと言われていたけれど、相互乗り合いしなければならない段階なんです。

太田──90年以降のヨーロッパの都市再生は、ジェーン・ジェイコブズ的な考え方の影響がでているように思います。象徴的なのは、リチャード・ロジャースとノーマン・フォスターがイエール大学で出会ってともに学ぶわけですが、ノーマン・フォスターの作品集を見ていたら、彼が院生のときジェーン・ジェイコブズの本に感激して、ニューヘブンをフィールドワークしたと1行だけ書かれていた。彼らはその体験をヨーロッパに持っていて、ロジャースがロンドンの監修をすることになり、フォスターがそれに形を与えていく。イギリスの都市再生でロジャースの影響が強いとすれば、実はジェイコブズの考え方がイギリス的に翻訳されて根づいていることになる。アメリカではそれが起きなくて、ヨーロッパでは起きているのが面白い。CIAM以降のジェーン・ジェイコブズ的な考え方が90年代以降浸透していく、その流れが日本で過小評価されているように思います。

中野──ええ。一部の学者やプランナーも「個人的には○○だと思う」と言いながらも、国の仕組みや制度それ自体などには触れないですね。僕は、日本の場合は田中角栄さんがつくった道路特別会計にいまだに依存していることが最大の問題、道路をつくれば補助金がたんまり出てくるという図式が強すぎるんですよ。それが中心市街地の再生のひとつのパターンになっている。槇さんが都市に幻滅をして建築に走ってきた気持ちもよくわかるような気がします。

地方都市を変える制度づくり

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新宿東口モア街(アプル総合計画事務所 会社概要より)
中野──僕は公共空間を自由に使えるような社会実験を提唱しています。新宿東口のモア4番街は私が仕掛けたのですが、20年以上、いまだに社会実験をやっている。僕が関わっているのは、市民がオープンスペースを自由に使えるような仕組みづくりなのです。新潟の駅前広場では、ついに新潟市広場条例をつくって道路交通法を実質的に外すことに成功しました。そこでは市民が自由に、営業までも可能にしている。この試みは日本初ではないでしょうか。

太田──道交法をはずすと店を出したりできるということですか?

中野──通常は道路管理者と交通管理者が必要ですが、新潟の場合は道路管理者である市役所の許可だけでいい。責任は市がとりますと言う仕組みにしたがゆえに、イヴェントやカフェの営業などが自由にできるのです。 そもそも役所の方は新しいことをやって失敗することを嫌う、それは自分の身を守るためには当然です。そうしたなかで僕がよくやる方法は、学識者が入った委員会が全責任を持つスタイルです。委員会が決めたのだから、担当の方はそれに気楽に従えばよい。だから最近は、地元の味方として委員会を引き受けているのですが、僕のような現場をずっとやってきた先生という立場の人間は数少ないかも知れませんね。

太田──こういう事例が日本でどのように行なわれていたのかを知りたかったので、今日の話は目から鱗が落ちる思いで聞いています。僕は現在43歳ですが、われわれの世代が後に続いていかなければならないと思うのです。乾さんは、宮崎県の延岡駅周辺整備デザイン事業で「デザイン監修者」という立場になられて、延岡の悲惨な状況に対してどのようにまちの質を上げていこうかと奮闘されているんですね。

──まちは縮小を前提としていて予算もないし、だから「できることからやりましょう」と言ったら受かった。たいしたことは言っていないんです。

太田──僕は今治市の「みなと再生委員会」という委員会に4年くらい前に関わったのですが、やはり地方行政は人材的にも余裕がないし、合併債しか財源がないし、港は中央が管轄しているので、街のデザインを戦略的に考えるところまでなかなかいかない。総合的に連携した政策が仕組みとして描けない、その苦しさを痛感しました。

中野──今治には少し前に行ってきましたよ。今治は線路を上げましたよね。僕は線路を上げるプロジェクトにいくつか関わってきて、首都圏ではすべきだけれど、田舎には必要なのかどうか、と思っています。そもそも僕は都市にはバウンダリーが必要だと思っている。河川や鉄道のバウンダリーがあることによって表と裏ができるし、中心市街地が維持できているのであって、線路を上げて駅を中心に再構成するとすれば、中心部を捨ててまちを新しい駅のほうに持ってくるしかないですし、地方にはパイがないから、おそらくどっちつかずの中途半端な都市になる。

太田──また、しまなみ海道ができて以来、港には船が来なくなっていますね。港と丹下先生の広場とをつなぐ商店街に人が通らなくなっています。郊外にショッピングセンターがつくられたので、そもそもいまの寂れた状態が計画されていたとも言えるのですが。

中野──港にもう一度人を戻すにあたって障壁となっている一番の問題は、臨港地区に土地利用規制をかけて住宅を排除したことです。臨港というのは物流のためにつくられている制度なのであって、物流機能が外延化するにしたがって住機能を戻せと、僕は個人的にも国土交通省の港湾の方々に言い続けているのです。都市を再生するには、「住」こそが根本にあるべきだと。 まちづくりに一番大事なのは、その地域に何人が何時間滞在するのかということで、仮に100万人の観光客が来ても滞在が2時間だったらその時間×人数しかお金は落ちない。ところが1000人が365日地域にいれば、そこにお金は落ち続ける。特に女性と子どもがいる街が一番お金を落とすんだと理論化していくべきです。中心市街地に一番欠けているのは、女性と子どもたち。ところが実際は女性と子どもたちが真っ先にいなくなって、旦那さんが市街地に働きに来る。家族の中心は郊外にあって、だから郊外ショッピングセンターが栄える。 ウォーターフロントで成功しているのは、例えばボストンですね。ボストンは1960年代の高層型の再開発で、ガバメントセンターのあたりからウエストエンドの内陸側のほうに力を入れてきましたが、それがあまり評判がよくなかったのですね。そうした経緯からウォーターフロントの再生にまわって、倉庫を住宅にコンバージョンするプロジェクトが続いている。要は車社会が山側に都市を発展させてきたから港が寂れてきた。あらたに港側に住機能をもう一度持ってくることによって、中心市街地を挟み撃ちするような戦略をボストンはとっているわけです。さすがハーヴァードやMITの拠点だなあと感じ入ります(笑)。それと同じようにアムステルダムは、ウォーターフロントを完全な住宅街にしている。日本が簡単にできないのはそこに臨港地区の縛りがあって、結果、非住居のコンベンションや観光施設という箱ものをボンボンつくっているわけです。各地のウォーターフロント開発なんか、ことごとく失敗している。

太田──それは制度的には変えられないのでしょうか。今治でも同様な住居の話も出ていますが、まだできていません。ですが、港のまわりには商店街ができているわけで、そこに商業と居住のミックスがあれば、住機能は自ずとウォーターフロントのほうにいくとは思うんですけれど。

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中野恒明氏

中野──みなとみらいも住宅だったらいくらでも売れるのに、小学校区を超える住居は立地させないという前提があるので更地がずっと続いているのです。クラレンス・ペリーの「近隣住区理論」に縛られている。
僕はけっして郊外居住を否定していませんが、圧倒的に郊外型にシフトしているから、その1割でも戻れば少し新しいものがでてくるのではないでしょうか。そういう意味で町家再生という話もしている。ただ、スタートが欧米の一部の都市に比べれば40年遅れているから、かなり大変だろうなという気がしています。

延岡の都市デザイン

太田──乾さんは、延岡の場合はどこから手をつけようとしていますか?

乾久美子──その前に、ちょっとだけ延岡の説明をさせてください。 私は建築設計出身で、いままでまちづくりやアーバンデザインは経験がないんです。たまたまとあるプロポーザルで、延岡市の駅周辺再開発事業のデザイン監修者の立場に入ることが決まって、あわててまちづくりを猛勉強中という状況です。延岡はもともとは旭化成の企業城下町で、ある時代まで栄えていましたが、雇用者数の減少や郊外化によって中心市街地が空洞化していきました。延岡駅は中心市街地の中心にありますが、老朽化しているため、駅の建て替えをきっかけに、周りの空洞化した中心市街地をなんとかしましょうと行政の方と考えているのです。もともとは中心市街地活性化法の認定を受けてやろうと進んでいた計画でしたが、中野先生のお話にあったとおり、認定を受けようとするとある型を押し付けられるのです。駅前には大きなビルを建てなければいけないというものとか......。それについて役場の若い職員の方が疑問を感じていて、なんとかしなければという気持ちからスタートして、私のような若い建築家を入れたら何か状況が変わるのではないかという期待感があってやっています。
まず私が考えているのは、中心市街地活性化法の認定を受けないでやる事業スキーム。けれど、そうすると補助金の種類が変わってきてしまい、事業規模がまったく変わってきてしまう。本来やらなければならないのは、駅の整備なのですが、それさえもできないような事業スキームになってしまう。ここで困っているのですが、これから知恵をしぼっていろんな補助金を探してやっていくことを考えているところです。
プロポーザルで提案したのは、もともとあった商店が集まったエリアに中心市街地を戻すのは縮退の時代では不可能なので、住宅地として転換していくことでした。難しいのは、実際に土地を所有されている方や、商店街組合の方々には商店街を住宅地化することへの抵抗感がある。住宅が増えるとそれなりにお客さんが増えるというふうには考えを切り替えることができず、商店街なのだから商店を増やさなければならないんだと。

中野──つまりは、お客を集めるための客寄せパンダとして、なんとかと駐車場が欲しいということですよね。

──たとえばそういう意見もあります。そうした、かつての方法論を求めるような意見が多いなかで、どのように新しい考え方を浸透させていけるのかが問題です。実際に住宅を増やすには、2つの方法が考えられるかと思っています。ひとつは「住みたい」と思う何かのきっかけをつくっていくこと、もうひとつは都市計画法で商業地域として指定されているところに手をつけるきっかけがつくれないかということです。後者はとてつもなくハードルが高いわけですから、現実レベルでは考えておりませんが......。

中野──一般的にダウンゾーニングなんて言ったら地主さんは大反対するでしょうね。土地の値段は本来ニーズとともに決まるはずなのですが、日本の場合は容積と連動してしまっていて、ニーズがなくてもここの地価はいくらだと地主が固定観念を持っている。実質的な利用価値がない土地も地主は高いという幻想を持っているし、コンサルタントもそれを前提にして計画してしまうから、再開発にあたっては大きな建物をつくってしまうんですよね。
実際のところ、いまのまちづくりはうまくいっていない場所が多いですよ。でも延岡は話を聞いていると、近くの日向市の活性化計画よりはいいですよね。あれをやったら街は寂れるなあと思っていますので......。

──延岡の職員の方も区画整理を前提とした整備計画には問題点を感じておられます。区画整理は右肩上がりで成長する場合にのみ有効で、縮退の時代に区画整理してしまうと、決定的なまちの破壊につながってしまうと思います。延岡市の場合は時代的に高架や区画整理が可能になるような予算に対する期待がほとんどないところからスタートしていることがむしろ良い点で、低予算でできることをやろうとみんなで模索しているところです。低予算を前提とすることで、縮退の時代にふさわしいまちづくりの方向性がみえてくることを期待しています。まちづくりはさまざまなメニューがあると思うのですが、いま、それらをリスト化してどれが可能なのかを探りながらやっています。

土木と建築を横断する

中野──いろいろな意味で、これから都市を志す人は大変だろうなと思う。

太田──そうですね。大変ですね。

中野──大変だという理由のひとつに、日本は土木と建築の縄張りが厳しいことが挙げられます。僕はたまたま都市工を出ているので、建築の人からすれば土木だし、土木の人からすれば建築だと言われながら勉強をして、土木用語を使えるようにしたのです。成功できたとすれば、土木の領域で仕事をさせていただいたことが大きいですね。多くの建築家が土木の壁に負けていったわけです。資格がないからと道路などの公共空間の設計をやらせてもらえない。やったことのある人間は疲れてしまっているのかもしれませんね。海外のアーバンデザイナーは道路から水辺や公園まで建築も含めてすべてやるのですが、日本ではそれができない。そう思うと、僕が最初で最後なのかなとか思うことはあります。その状況に風穴を開けたいと思って動いてはいるのですけれどね。

太田──小泉政権の終わり頃、首都高埋設の議論がありました。僕は埋設すべきだと当時から確信しているのですが、不思議なことに保存すべきだと言うのは建築の仲間ばかりで、都市工や土木の仲間は撤去か埋設だと口を揃えて言うという不思議なことがありました。建築の人間が、ほんとうにいまの首都高下の空間を歩いたことがあるのかと疑うほど、ひどい場所だと私は思うのですが。もちろん首都高埋設のように東京にとって大きな問題を話せる場自体がないのも問題で、そういう話が当たり前にできないと、日本のまちは絶対によくならないと思うんですよね。

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ハイライン(wikiより引用、撮影=Beyond My Ken)

中野──同じ交通とランドスケープで言えば、ニューヨークの高架貨物鉄道跡を公園に再生させたハイライン(http://www.thehighline.org/)はなかなかいいですよね。ああいう仕事をしたい、仕掛けたいね。

太田──そういう事例をもっと分析して、評価して、社会全体のコンセンサスにしていきたいのですが、土木と都市計画には雑誌もないし、批評がない。

中野──批評がないですよね。官需中心でコンペはあるけれど、競争して評価を得る、論理的に価値を共有しようという意思があまりない。そしてコンサルのなかでも業務は縦割りで、河川、鉄道、道路、橋梁、下水と、それは国の省庁の分類とぴたり合う。それぞれのコンサルごとに体質も文化も違うし、コンサル料の単価までも違うんですね。僕は景観というキーワードで関わってきたから、不思議と河川コンサルも鉄道も道路も橋梁も港湾もと、すべての分野をやってきました。

太田──建築は、民間が9割で公共は1割ですね。

中野──それは世界から見てもおかしいですよ。

太田──公共は国から市まで発注形態が守られていますよね。

中野──市役所のOBが定年後にコンサルの営業に採用されることはありますからね。コンサルだけじゃなくて工事会社も。それだけ閉鎖社会で、ほかでは飯を食えないということです。そういう構造が日本の街を悪くしている気はしていますね。

太田──僕も風穴を開けたいし、でもどこからやるのかなと思っています。まずは社会基盤の土木や建築家の方と批評したりするのがよいのかなと。けれど一方で、これだけ街が危機的なのに、20年前に比べて熱は冷めてしまっているように思う。それが残念です。

中野──総合的にそれだけのお金が動かなくなっているからでしょう。前は何かやればお金を使ってくれた自治体もいまはなくなっている。まずプロジェクト自体が成り立たない。

小さな仕事から時間をかけて街を変える

太田──乾さんは昨年末から今年初旬にかけて行なわれた、前橋市美術館のプロポーザルコンペはやりましたか?

──はい、やりました。

太田──このコンペは、群馬県前橋市にある撤退してしまった百貨店のリノベーションとして、上階の駐車場を残しながら、ビルの1階と2階に美術館をつくるものでした。商店街は歯抜けして、デパートが軒並み撤退しているような街です。街全体が抱えている厳しい状況に、言ってしまえばB級の建物のリノベーションという厳しい方法で答えるしかなく、しかもその状況を変えるための議論の場も機能していない。われわれはこうした仕事をこれからもやっていくのかと。千葉の「市原市水と彫刻の丘」リノベーション・コンペも同じようなものでしたよね。こういうコンペやプロポーザルは増えていますか?

中野──件数自体は増えているのではないでしょうか。さまざまなクライアントがアイディアを欲しがっている気はしますが。

太田──僕も、延岡の例が象徴的だと思いますが、まちの未来をどうするのかという場面に建築家が参入できるような機会がでてきたのかなと思っています。

中野──プロジェクトだけで見てしまうとつまらないかもしれないけれど、そこで地元の人と接して自分の考えを伝えていくことの重要性を感じています。門司港も最初は道や広場のデザインだけの仕切りでしたが、仕事をしていくと行政の人たちも藁をもすがるような気持ちで新しいアイディアを求めていることがわかる。それで、彼らと真剣に議論して自分の考えを伝えると、「それじゃあ中野さん、こっちもやってみたら」というつながりがうまれてくるのです。信頼を得ることができたら次のステップに行く。アイディア・コンペはそれ自体は小さな仕事かもしれないけれど、それを起爆材にして、まちを変えていく意識でやってきました。

太田──長くつきあわないと変わらないですよね。

中野──特に都市はね......。後始末をしなければいけない。つまり形だけではなく、使い方までもフォローしなければなりません。形になるまでに5、6年、その後のフォローはそれ以上の時間が必要です。絵を描いても全然違うものができているなんて、そんな悲しい話はないからね。

太田──昔、北沢先生にやるなら30年やるつもりではないとだめだよと、そういう時間軸で見ないとだめだと言われましたね。

都市系デザイナーの育て方

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左から、太田浩史氏、乾久美子氏、中島直人氏

中島直人──今日は3人の座談にお招きいただいてたいへん面白く、特に中野さんのライフヒストリーをお聞きしたのは初めてでした。建築と土木の両方で成果をつくることができたのは自分が最初で最後になるかもしれないと言われていましたが、次の世代がなかなかアーバンデザインで食っていけないのはどうしてなのか。中野さんの仕事を受け継いでいける次の世代への人脈をどのようにつくってこられたのか、具体的な人物がいるのかなどをお聞きしたいと思いました。

中野──土木系に関しては人材がそろってきましたよね。小野寺康、中井祐、星野裕司、重山陽一郎といった篠原修さんの門下生をアプルで3~5年くらい預かっていたのですが、彼らには篠原さんとは別の血を入れたなという自負はあります。けれど、都市系のほうで人材がなかなか育ってこないのは僕としては失敗したなと思っています。一番の問題は、地方都市の自治体職員の意識の持ち方にあるような気がしていています。つまり、自治体の職員に優秀な人を送り込んで、逆に彼らが力をつけたときに、民間のコンサルタントやデザイナーを育てるためのソフトに予算をつけるようなシステムが育っていないことが問題です。彼らには「きちんと予算をつくれよ。いいものをつくるために、知恵にお金を付けなければだめなんだぞ」と教え込んでいるつもりなのですが。言ってみれば、第2の北沢猛を育てたいということかな。なかなかうまくはいかないけれど。

中島──最近の地方出身の学生は、昔に比べて地元の公務員になる傾向が強いように思います。私の同期のなかでは都市工を出てコンサルに進んだ学生が多かったのですが、下の世代はほとんどいきませんね。

中野──実態を知っているから、教え子にコンサルに行けとは言わない。逆に3年くらいやって自治体に行き、地元の公務員たちとのネットワークをつくっていくのが理想だと。ただコンサルにいると公務員試験の準備ができないと聞きますね。

太田──そうすると、誰がデザインをするのか。質はどうなるのか。

中野──そう、そこが一番頭の痛いところですね。

太田──僕は、地方で活動する若い建築家がそういう地方の場に参加できるようになるといいなと思うんです。建築家の空間を構想する力を信用しているので、東京でなくてもいいとは思っています。

中野──僕もフィールドを東京ではなく地方に求めているのはそういう理由からです。ただ、極力地元のコンサルタントや設計事務所と組みたいと思っているけど、設計料が少ない場合は組めませんから、そこは辛いところですね。

中島──一方で今日のテーマであるアーバンデザインの20年ほどのうちで、職業の中身も求められるものが変わってきているような気がします。中野さんの時代は空間も設計していますが、いま都市のデザインをやりたいという若い人にはどういう技術が必要だと感じられていますか?

中野──僕はフランスのザック(ZAC、協議整備区域)のシステムをモデルに考えたいですね。これが日本で定着してくれると、チームでつくり込めるし、チームのある部分をやった人が何年かしてマスターアーキテクトに育っていく。僕は槇さんという建築家でありアーバンデザイナーの下で仕事のプロセスを身をもって経験した。その経験を土木であろうが建築であろうが、若手には伝えてきたつもりです。そういう態勢をとるには、共同でやっていくプロジェクトをなるべくつくっていくこと。共同作業するなかで遺伝子は伝わるような気がしている。そういう機会を増やさないといけないと思っています。

太田──それをわれわれの世代でもちゃんとできるか。建築家も都市に対して興味があるのですが、そういうアーバンデザイン的な視点を専門的な見地から言ってくださるプロジェクトがコンペでもあるといいなと思います。

中野──それは土木のコンサルの方々も求めていることだと思いますよ。結構土木のコンサルさんとつき合っていますが、僕と付き合った彼らは現場で幸せそうにしていますよ。社内だけではできないことができるから。

太田──中島さんと一緒に行なった釜石市の復興計画のワークショップも、建築家や都市計画の人と一緒にやりました。

中野──契約上は土木のコンサルの下に入っていても、実は俺がスーパーヴァイザーなんだと言って進めたほうが、お互い幸せだったりするのかも知れませんね。

太田──2001年小泉内閣時代に設置された都市再生本部というのがありましたが、その機運はアーバンデザイナーや建築家の育成にはつながらなかったと思います。三菱地所や森ビルのなかでは何か知恵がついたのかもしれませんが、全国津々浦々でまちの将来を描き出せる職能は結局成立することがなかった。

中野──外人建築家を登用し、国内で人材を育ててこなかったこともありますね。

太田──ブレア政権下のイギリスではCABE(Committee for Architecture and Built Environment)という組織が建築家を対象に都市再生の講座を毎週やっていたり、事例集をPDFで配信したりして、設計レベルの底上げを徹底的に行なった。いまの日本の状況を考えると、絶望的なくらい先は遠いと思います。

アーバンデザインとジャーナリズム

中島──そもそもジャーナリズムがなく、アーバンデザインがやったことに対する評価もありませんから、一般の市民も何がいい街なのか判断ができません。少しお金や時間をかけてしっかりいい街をつくろうねという意見が市民から出てくるようにならない限り、行政も余計な予算と時間をかけることになってしまう。

中野──建築はフィールドを決めたら自由にできたけれど、都市の場合はいろんなしがらみがあるじゃないですか。誰が何をやったか評価しにくいんですよね。

中島──プロフェッショナルにとってはそうですが、市民はそれを評価することはできるはずではないでしょうか。太田さんが研究されていますが、イギリスなどでは都市ごとに市民発のメディアがありますよね。そういう意味ではわれわれには都市文化がないとも言える。

中野──イギリスはアーバンタスクフォースで、政治的にも上の方々が仕掛けをしているから、その仕組みは日本でも必要とされているかもしれませんね。

太田──最近港湾研究を始めたところなのですが、調べていて面白いのは、知恵を融通しあっているところなのです。アライアンスがいっぱいあって、ナポリとバルセロナなどの行政担当者がこまめに情報交換をしている。港湾都市では行政間の横のつながりが結構あるのです。

中野──あとはコンサルタントが市の職員になったり、またその逆があったりと、日本は役人だけれど、あっちはプロフェッションで、能力さえあればネットワークはいくらでもできる。いまはインターネット社会ですからいくらでも可能だと思うのですが、そういう意味での人材がいないのかなとつくづく思います。だからいいまちができないとも言える。
僕がいい仕事をやらせてもらえたのは、仕事に関して雑誌などで発表する機会があったから、しゃべって意気投合して、直接電話してくれて、やらないかと言ってくれたから。それでも事務所は最大5人のチームでやってきてしまった。ただ、それが限界だった。それ以上人数を増やしていたら事務所が破綻してしまったでしょうね。
もしくは、黒川紀章を通して一般市民が建築家という職能を知ったというようなことが、アーバンデザイナーや都市計画プランナーからうまれてこなかったというか、マスに知られていないんですよ。それが一番悲しいところですね。

中島──市長さんとか自治体のトップの方のアーバンデザインに対する理解が少ないですよね。アメリカではアーバンデザインが市長選のひとつの論点になることがありますよね。そういうセンスが日本の政治にはない。われわれが外に向かって働きかけてこなかったのも事実だと思いますが。

中野──どうすればいいですかね?

太田──僕は、雑誌はそのひとつだと思うんですけれど。

中野──雑誌かぁ......。

太田──この約20年のまちづくり、アーバンデザインの成果はたいへん大きいと思うので、これからのまちの将来をどうつくるかという議論のベースを育てていけば、まちづくりと新しいかたちのアーバンデザイン──われわれは「まちデザイン」と呼びますが──の中間点として、これまでの20年の成果をうまく今後デザインにつなげていけるのではないかと思っています。雑誌はそのための手段のひとつたりうると思っています。

中野──この約20年間、計画自体の無理を承知で途中までつくりあげてしまっている事例が多くあります。ですが、アーバンデザインはそういう計画案を否定したら嫌われることになる。そこが辛くてね。そういうことがあるなかで、20年ほど前に始まった門司港のプロジェクトは何もなかったから「埋め立てや臨港道路を見直せ」って言えた。そして本当に見直した。しかし、いまは手遅れなケースが多い。いまでは、既定計画が都市再生の名の下に国からの補助金や交付金を引っ張りだして実行する、そのことが都市の再生だと信じている人がいるんですよ。あるいは公共事業はカンフル剤だと。いまはやればやるほど都市を壊しているように思います。

太田──これからもそのジレンマを脱する方法を考えていきたいと思いますが、最後に、いままさに都市を学ぼうとしている学生に、こういうことをやっていたほうがいいんじゃないかと思うことがあればお聞かせください。

中野──地方を真剣に見てほしいですね。何が地方をいまのような状態に陥らせる原因になっているのか。いままで正しいと思われていた理論やそれをもとにした制度かもしれない。固定観念を持たずにまちの再生のためにどうしたらいいのか、「住まい」からまちを見直してほしい。そして、地方自治体にはまだまだやるべき仕事があるよ、そっちで活躍してみないか。と言いたいですね。

太田・乾・中島──今日はお忙しいなかお話をお聞かせいただきありがとうございました。

◉ 中野恒明 なかの・つねあき/アプル総合計画事務所所長、都市環境デザイナー・都市プランナー
◉ 太田浩史 おおた・ひろし/建築家
◉ 乾久美子 いぬい・くみこ/建築家
◉ 中島直人 なかじま・なおと/慶應義塾大学環境情報学部専任講師


※「新しい『まちデザイン』を考える」は隔月で連載を行ないます。


201110

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