ウォーフェアからウェルフェアへ──戦中と戦後、空間と言説

八束はじめ(建築家・建築批評家)×青井哲人(明治大学准教授・建築史)

国家の計画経済と建築家、プランナー


青井──1930年代の日本では、世界恐慌・昭和恐慌のなかで、社会主義圏で試みられていた計画主義が導入されます。同時に大正デモクラシー以来の政党政治に終止符が打たれて挙国一致内閣に転換していますね。つまり立場や利害の違う人々が主張をぶつけあうという意味での公共圏が終わって、別種の公共性が圧倒していきます。テクノクラート(専門分野別の技術官僚)たちが議会をすっ飛ばして政策を立案・遂行していくわけで、そうして国家機構が産業経済を統制し、社会的な矛盾を調停し、それらに適合的な空間を編成する主体になるわけですね。それは大規模な建設事業も伴いました。

ヴォルフガング・シヴェルブシュ
『三つの新体制──
ファシズム、ナチズム、ニューディール』
(小野清美・原田一美訳、
名古屋大学出版会、2015)
ヴォルフガング・シヴェルブシュ『三つの新体制──ファシズム、ナチズム、ニューディール』(小野清美・原田一美訳、名古屋大学出版会、2015)という本では、世界恐慌下の30年代に現れる新しい体制として、ファシズム(イタリア)、ナチズム(ドイツ)、ニューディール(アメリカ)が論じられています。で、この本の第5章は「シンボル建築」と題して各々の新体制のシンボリックな建設プロジェクトを比べているのですが、まずイタリアは「アグロ・ポンティーノ」。ローマから南東45Kmあたりの湿地帯は中世から何度も干拓に失敗して「国民的惨めさ」のシンボルであったといいます。その回復をプロパガンダにして、干拓、運河・道路などのインフラ建設、そして家、村、都市(農業都市)の建設などを含む総合的な国土開発が目指されます。自由主義的な資本主義経済は破綻したのだという理解のもとに、日本とも共通する農本主義的なイデオロギーが前景化されるという側面もあるのかもしれません。

八束──一種の国内植民地ですね。

青井──そうです。植民事業、再定住事業です。シヴェルブシュによると、その計画にはハワードの田園都市、フェーダーの農村都市、クリスタラーの入植中心地、そして何よりもソヴィエトのコルホーズ(集団農場)の特徴が色濃く読み取れるといいます。集団で利用できる機械や設備や倉庫がつくられ、つまり集住地は協同組合的な原理で組織化されるイメージですね。干拓は労働者による自然との組織的な戦い(戦争)であり、「新しいイタリア的生活様式」の実験場であるとも宣伝されました。ル・コルビュジエは新都市建設のひとつをやりたいと言っていたようです。
ドイツは最先端のテクノロジーを強調した「アウトバーン」が取り上げられています。アウトバーンは国土全体を高速で移動できる道路網によってネットワーク化するわけで、モータリゼーションによって人々を従来の拘束から解放し、広域に分散する国民大衆を一体化するイメージですね。アウトバーンは戦争の道路とされることが多かったわけですが、シヴェルブシュは新しい研究動向を踏まえて、第三帝国はアウトバーンでまとめ上げられた「大きな余暇施設」として現れた側面があると言っています。それからアウトバーンは一種の景観創造であり、美学の創造でもあった。自然景観のなかを滑るように、環境と融け合うように移動していく経験の新しさ、といったことも言われています。
アメリカのニューディール政策を象徴するのは「テネシー川流域開発」。暴れ狂う川を治水し、困窮していた農民を救済しながら、電力開発つまりエネルギー開発を行うというものです。このTVA(テネシー川流域開発公社)の事業も、土地改良、植林、田園都市的な再定住事業、道路インフラ、工業団地、さらにはマラリア撲滅、教育や図書館整備などが総合されるイメージでした。
3つのプロジェクトはどれも、自由主義や資本主義によって放置あるいは破壊されてきた国土を、新しい技術や建設がもたらす未来的・解放的な社会像の実現とともに美しく再生し、一体化するといった目標が共通しています。この本は日本にはふれていませんが、もし同時期の日本の象徴的な建設プロジェクトを挙げるとすれば何でしょうね。やはり満洲かなと思います。

八束──今『汎計画学』という本を書いています。最初に延々とロシアのことばかり書いていて、それだけで1冊の本になってしまいそうな分量なので困っているところですが、ちょっとそちらに話を向けさせて下さい。イギリスの経済学者モーリス・ドップが、『ソヴェート経済史』という本を書いています(新評論社、1956)。革命ロシアの初期は、内戦で3年間ほど揉めていますが、戦時共産主義がうまくいかず、ネップ(新経済政策)に移行し、第二フェーズとなります。その分析で、ドップは兵站と計画経済の酷似を指摘しています。実際に兵站を推し進めたのは、軍事革命委員会議長としてのトロツキーです。トロツキーは赤軍を立て直し、更に広い国土の内戦を解決するため鉄道網を再編します。そこで彼は印刷もできるし、放送もできるし、自転車部隊も送り出すことができる特別な司令部列車に乗って、あちこち動き回る。都知事選の黒川紀章さんのようですが(笑)。そうした点で、トロツキーは完全にインフラ主義者です。一方のレーニンは電化、つまり電気のネットワーク、エネルギーのネットワークをつくります。それらインフラは、戦争のための兵士や物資を送るだけではなく、政治的アジテーション、つまり情報を送ることもする。内戦で赤軍が白軍に勝てたのはこの情報戦に勝てたからだという話があります。内戦後の疲弊した国土の中で農村から都市へ食料を運送するのですが、凄く強引に取り立てて多くの人命が失われますけれども、その是非はともあれこの輸送もインフラ網なしには果たせません。レーニンは電化+ソヴィエト=共産主義という有名なテーゼを立てますが、経済開発(点)+インフラ整備(線)が国土計画(面)=計画経済の要になるわけですね。先ほど出てきたドイツのアウトバーンもイタリアのストラーダ・デル・ソル(太陽の道路)も同じですよ。これらは広い意味での「建築」だと思いますが、それが実施に移されていくのがスターリンの「五カ年計画」で、細かいことは省きますが、あれはトロツキーのアイデアをスターリンが横取りしたものだといわれています。トロツキー流に言えば、歪められた形で計画経済が進められていったことになるわけですが、ロシア・アヴァンギャルドの都市計画はその五カ年計画に載ったものです。
日本の南満州鉄道の調査部は、いつ対ソ戦争になるかという危機意識もあって、アメリカ以上にソ連についての情報を持っていました。当然岸もそれは熟知していたはずです。もちろんアメリカも情報収集していて、ナショナル・ライブラリーに沢山残っているみたいですが、それを凌ぐ資料が満鉄にはありました。それをやっていた連中が、さっきいったように戦後日本に戻り国土開発をやるというのはとてもおもしろい。
先ほどの話に戻りますが、建築史がなぜそのような話をやらなかったかと言うひとつの傍証ですが、戦後日本で復興を手がけたのは、戦災復興院から後の建設省になる建設官僚と、後に経済安定本部(安本)から経済企画庁になっていく経済官僚であり、前者は個別案件に関わりますが、後者は国土内にどう生産センターを配置し、どうネットワークしていくかというもっと大きな話に関わりました。国土計画についてはエコノミスト側の経済官僚の方が遥かに構造的なわけです。建設官僚より経済官僚の方が大きな意味では「建築家」的なわけ。建築史がこういう部分を見ないとそこは落ちてしまう。丹下さんが優れているのは、建設官僚よりもそうした経済官僚とくっついたところです。このような話は、「メタボリズムの未来都市展」でもやろうと思いましたが、ビジュアルにならないために展覧会向きでないので、少しだけ扱い、あとは本に書いた程度です。やはり建築史が目に見えるものだけを扱ってきたことの問題がある。『汎計画学』はそれを埋め合わせようとしているわけですが。

青井──なるほど。先ほどのシヴェルブシュの『三つの新体制』では、スターリンが実施したソ連のドニエプル川のダム発電所複合事業を手はじめとする工業基盤建設についても当然書かれています。これが五カ年計画の端緒かつ根幹ですね。世界恐慌のはじまった頃、自由主義圏は疲弊しているのにソ連はこれをダイナミックに展開していました。それに刺激を受けるかたちでイタリア、ドイツ、アメリカはそれぞれの計画経済とそれに伴う国土開発を進めていくのですが、日本の場合も五カ年計画に感化されたいわゆる新官僚・革新官僚と呼ばれる人たちが計画主義的な政策を推し進めることになるわけですね。右翼的なイデオロギーの下で、政策の原理に社会主義を組み込む。

八束──さっき五カ年計画をトロツキーのアイデア(五年というのがではなくて重工業主体の綜合計画)のスターリンによる剽窃みたいなことを話しましたが、ドニエプルも本来トロツキーが熱心に推進したものです。当時スターリンが、金ばかりかかるという理由で反対したのだけれど、途中で切り替わった。日本も満州と特に北朝鮮で電力開発をやっていますが、当時ドニエプル川のダムについては日本でも相当報道が出ていますね。あれは一度ナチが攻めてきた時に壊されて戦後に再建するのですが、そういった話も含めて報道されています。
あの保田與重郎も北朝鮮にダムを見に行き、感激して文章を書いています。皇国右翼の美学と国土再編に彼らが感じていたロマンティシズムを批判することは容易ですが、そのつながりはおもしろいところだと思いますね。晩年の立原道造もそこにつながっていた。その友人たる丹下健三や浜口隆一もそうだし、左翼っぽく見られている前川國男もそうしたものに惹かれていたことは否定できないと思います。あの時代、明確に反戦を言った建築家はほとんどいません。山口文象さんは本当の意味で左翼でしたから違うかもしれませんが、でも彼は戦後に黒四ダムをやっていますね。ドニエプルのダムはヴェスニン兄弟のデザインですが、あれと似ています。
たとえば前川さんでも、いわゆる満州の「参スケ」のひとりである鮎川義介(残りは松岡洋右と岸信介)、岸に招請されて満州重工業の総裁になった日産コンツェルンの親分と親しい仲でした。岸と鮎川のコンビが満州の産業開発五カ年計画を推進するのですが、戦中の前川事務所は鮎川からの仕事で成り立っていたところがありますし、戦後のプレハブ住宅「プレモス」も満州で開発していた飛行機の技術を活かしたもので、最初のものは鮎川の息子のためだったと記憶しています。ソ連の五カ年計画ではアルバート・カーンの事務所がフォードの技術を利用して長さ2キロだかの自動車かトラクターの工場を造っています。端から原材料を入れると反対側から完成品が出てくる。前川事務所も似たような工場を満州で作ったみたいですね。2キロはさすがになくて500メートルとか聞いたことがある。資料は全然残っていないみたいだけど。だから前川國男が反戦左翼で軍国主義に抵抗する人だったという話は、かなりの部分はつくられたものだと思います。だからといって、前川さんも戦争に荷担したんだといいたいわけじゃないんですけどね。

青井──内田祥文や高山英華という名前も挙げられますね。「大同都市計画」(1938)とか。

八束──誰もまだ掘り返していませんが、東京都公文書館の内田祥三文庫の中には、戦中丹下さんらがやっていた戦後復興の住宅計画と、それに関連する都市計画の研究会の記録があります。内田祥文なんかも入っていたと記憶しています。彼の博論は建築の防火構造化、つまり防空研究でしたからつながっていますね。メンツは殆ど東大勢ばかりですが、なぜか今和次郎が入っています。いくつか会議の記録が残っていますが、一番熱心なのは丹下さんです。造形やイデオロギーとしてではなく、純粋な計画として、円形の概念図式を書いていたりします。戦後を背負う人たちが戦中に大同計画をやりつつも、そうした小さな話もやっていたというのはおもしろいところです。誰かこのあたりを研究したら良いと思いますね。

「大同都邑計画」内田祥三・翔文+高山英華、1938
上=配置図
下=街区配置図、ピッツバーグの街区パターンに類似

青井──戦後復興の最初期に、渋谷、新宿などの単位での復興計画コンペがあり、内田祥文はそれらに応募して勝ったりもしていますが、戦中の満州などでの実践で培われたものですね。

岸田日出刀, 高山英華
『外国に於ける住宅敷地割類例集 』
八束──コンペの中心人物は石川栄耀ですね。その後を継いだ形で戦後の都市計画的な中心的人物になったのは高山英華ですが、高山さんは戦前にも住宅地を含めた配置の教科書をつくっていますね。『外国に於ける住宅敷地割類例集』(1936)という奴。大同の住区計画はこの中のピッツバーグの街区パターンとそっくりです。そこにル・コルビュジエ的近代建築+満州風リージョナリズムを入れたデザインにしたのが内田祥文。全体の計画は父親の内田祥三が親分ですが、その内田が中心だったもう一つの計画が、満州の開拓村のモデル計画(1933)です。あれはすごくおもしろい計画で、当時一般誌にも結構詳細な記事が載っています。かつて僕の研究室でCGアニメーションをつくりました。笠原敏郎とか岸田日出刀とかが陸軍の軍人(加藤鐵矢一等主計)とも一緒にやっています。菱田厚介という当時内務技官で都市計画の本も書いている人がデザインしたようです。開拓村のユニットを幾何学パターンで繰り返していますが、おそらくドイツの地域計画をやったクリスタラー(元々はアルフレート・ヴェーバーなどから始まっているものですが)からの影響だと思います。クリスタラーは元々左翼でしたが、ナチス政権下では東方のポーランドやウクライナの計画をやっている人物です。

満州開拓村のCG
芝浦工業大学八束研究室制作

青井──1941年に高山英華が描いた東北の漁村のプランがあります。日本学術振興会から同潤会に委嘱があった東北地方農山漁村住宅改善調査委員会の報告にそれが入っています(『同潤会基礎資料III 第11巻』所収)。

八束──この配置図は知らなかったな。でも高山さんは学会でも内田の下で東北の調査と計画をしていますね。あれって軍の委託じゃなかったっけ?今和次郎もやっていますね。2・26事件や5・15事件の皇道派の兵士たちの多くは東北出身で、貧しさから自分たちの妹が叩き売られたりしているのは政治が間違っているというところからクーデターに走ったので、軍としてはそれを何とかする必要があった。満蒙移民も東北からが多いので、その辺は全部繋がっていますね。

高山英華が担当した漁村集落計画
出典:『東北地方農山漁村住宅改善調査報告書 第3巻』(日本学術振興会 第20小委員会、同潤会に委嘱、1941/内田青蔵・大月敏雄・藤谷陽悦編『同潤会基礎資料III 第11巻』柏書房、2004所収)


青井──戦後復興の最初期に、渋谷、新宿などの単位での復興計画コンペがあり、内田祥文はそれらに応募して勝ったりもしていますが、戦中の満州などでの実践で培われたものですね。

青井──東北地方の経済開発というこれまた内国植民地的な主題は大正期からありますが、昭和恐慌を迎えて本格的に動き出します。基本的には国もお金がないので、第一次産業の農山漁村は自力更生というプログラムで考える他なかった。もちろん満州移民が大きいわけですが、国内的にもさっきのアグロポンティーノやTVAみたいな再定住事業があり、模範住宅による開拓農村の建設といったことも進められました。自力更生というのは、簡単にいえば各村落をそれぞれ産業経済的な事業体として組み立て直せという話です。思想的にも実践的にも協同組合原理が社会政策に組み込まれ、各村落を組合として経営体・事業体化していくわけです。コルホーズ的ですね。国あるいは帝国が組合の階層的な連合体みたいになるというイメージだとすると、これはある種のサンジカリズムともいえるかもしれません。裏を返せば、国家が村々までを掌握するわけで、それをベースに戦時期の配給や統制が行われる。つまり国家サンジカリズムあるいは国家コーポラティズムというかたちで全体主義につながっていくわけです。
 三陸沿岸部の漁村は1933年の昭和三陸地震で津波被害を受け、その復興予算を落とす受け皿として半ば官製的に組合がつくられます。国家からの融資によって、住宅地は高台に移転し、港には漁業関連の共同施設がつくられ、一方では国庫補助で護岸や道路がつくられ、漁村はかなり変貌したと思います。そうした漁村改造のモデルケースとされたのが岩手県の吉里吉里という集落で、高山英華は同潤会の調査に参加してこうした動きを調べ、吉里吉里を下敷きにして漁村計画のモデルプランを描くわけです。

八束──へえ、その集落って井上ひさし『吉里吉里人』のモデルかな?あの辺でしょう、想定は?架空だと思っていたけど。

青井──そう、その吉里吉里です。もちろん小説はフィクションですし、井上ひさしがなぜ吉里吉里を選んだのか、僕にはちょっと分からないですが。

八束──それはそれとして、この高山プランはなんとなく大同の計画に似ていますね。

青井──そうなんですよ。放射状プランと用途地域制。大同の計画は1938年でしたが、これは1941年ですので、満州でやったことを東北に持ってきたような感じです。もちろん規模は違いますが。興味深いのは、津波復興によって住宅が高台に移り実際に「住居地域」ができてしまったわけで、用途純化されたプランを描くのに都合がよかったという面もあるように思えることです。いずれにせよ、こんな辺境の村も計画経済的に再編されようとしたわけですね。農林省系の専門官僚たちによる昭和恐慌下での社会再編のアイデア、その思想・方法としての協同組合原理、そしてそういった政策的枠組に共鳴しつつ絵を描くプランナーや建築家、という構図を見ることができます。

八束──『汎計画学』では、これからフランスについては、『ル・コルビュジエ―生政治としてのユルバニスム』(青土社、2013)の続きを書こうと思っています。フランスの戦後の国土計画の父でフィリップ・ラム-ルという人がいますが、1930年代には、彼はル・コルビュジエの協力者でした。ル・コルビュジエがプロトファシズム的な運動として、雑誌『プラン』や『プレリュード』などをつくっていますが、その同人でもあります。かなりファシズムに近かったのですが、途中でドロップアウトするので戦後まで生き残り、農業に力を入れてフランスの地方国土計画の父になっていきます。

青井──当時のフランスでも農村に反体制的な運動、左翼運動はあるのですか。日本では大正期からの小作争議が昭和恐慌下でも頻発し、労農党や共産党が噛んで運動をやりますね。国家としては、体制維持の観点からその反体制的なエネルギーを抑えつつ、むしろ共同体の経営体化に向けたエネルギーに振り向けていったといわれています。郷土愛とか共助の精神といったことも宣伝されますね。自力更生や協同組合というのはそういうイデオロギーでもあったわけです。

八束──フランスも同じだと思います。ル・コルビュジエやラムールたちのも、サンジカリズムですね。まぁ、その辺は右とも左とも言えるんですけどね。「輝く農村」とか。戦後の農協運動への大高正人さんたちの関与も根は共通している。でも大高さん、昔伺った時には「輝く農村」はご存じなかったな。
やや飛躍しますが、どこの国でもそうした国土開発の動きを主導するのは実は電力や鉄道のテクノクラートです。ロシアでもフランスでもそうですし、日本も東電の松永安左エ門がいます。彼が主催した私設シンクタンクの産業計画会議は、東京湾横断橋や国鉄の民営分割化などを提言していますし、「東京計画1960」の元になる東京湾埋め立てもその一環のプロジェクトでした。菊竹さんの海上都市シリーズもそういう背景があって生まれたものです。『メタボリズム・ネクサス』でも書きましたが、要するに敗戦で海外に出て行けなくなったので、海の上か空の上に進出していくしかない、となったわけです。だから、メタボリズムの空中都市や海上都市の計画は、戦争による領土の獲得=侵略を代替するものでもあったと思う。電力で言えば、松永の後継者で後に東電の社長になる木川田一隆も丹下さんにかなり近かった人で、大阪万博の時に原発を導入し、会場に最初の光を引っ張ってきた人です。松永や木川田が今の福島の惨状を見たらどう思っただろうな、と時々考えるんですけどね。
大阪万博の頃はもはや核の直接の脅威は薄れて確かに薔薇色の未来みたいな色彩が濃厚ですけれども、あの時には途上国に光を当てようという議論がかなりあったんですね。先進国だけではダメだと。その後の経済進出を念頭に置いていた向きもあるのだと思いますけど、あの議論はかなり大東亜共栄圏とか五族共和に近いと思う。丹下さんもそれに載っていたはずです。戦中の丹下さんはむしろ五族共和リージョナリズムを軽く見ていたきらいがあるのに。だから大屋根とお祭り広場も戦争の裏返しとしてのシンボル空間と読めます。そういう意味では、真の、というか究極の帝冠様式はあの見えないモニュメントだったといえなくもない。大屋根自体には「冠」はないんだけど、その代りに太郎さんの塔が冠になった。帝国や戦後民主主義の象徴ではなくて、大衆消費社会の象徴として。
先ほどニューディールの話が出ましたが、『ヨーロッパのニューディール』という本があるんです。フランスでは計画経済のことをディリジスムといいますが、その辺繋がっているわけですね。元々官僚の強い国でもあるし、戦災復興としてル・コルビュジエのサンディエの計画とか、ユニテ・ダビタシオンとかがある。ユニテは元々戦中の構想ですしね。フランスではディリジスムの伝統が政治的・イデオロギー的には右から左に捩れながらそういった戦後の国土・地方計画や都市計画につづいていきます。それが未来学にもつながる。日本風にいえば国土庁長官みたいな立場だったピエール・マッセと言う人がいて、この人の本とかは日本でも紹介されました。『計画の思想』(ダイアモンド社1972)という本ですが、原タイトルは『計画あるいは反偶然』という格好いいものです。
日本未来学会(いうまでもなく、メタボリズムと極めて近い)の会員で、「情報化社会」という言葉を流行らせた林雄二郎も、経済企画庁出身で後に東工大の社会工学科教授になっていますが、今言ったマッセにも会っていますね。1960年代の経済官僚と一部政治家、そして丹下健三や高山英華の動きは、僕の本でも少し書きましたがすごくおもしろい。そういうことが分かるプランナーが今はいなくなってしまいました。視野が狭いと言うか射程が短いと言うか。

青井──エネルギー開発とインフラ整備といった国土計画・地方計画と当然つながりますが、産業構造ということでは重化学工業化がこの時代の大きな主題でした。たとえば京浜工業地帯のような工場集積には地方から大量の労働者が集められるわけで、そうすると住宅問題の逼迫というのも戦時期の大問題になり、これも戦後に連続します。たとえば川崎は巨大な工業集積になりますが、住宅供給が追いつかない。同潤会はRCの集合住宅ばかりが注目されますが、それを圧倒的に超える戸数の木造戸建てをつくっています。関東大震災直後は勤め人向けの住宅供給が中心でしたが、1930年代以降は工場労働者向けの家族・単身者用住宅をつくりました。戦時中にそれが住宅営団になり、戦後、住宅公団になるわけですね。研究室の学生が調べたことですが、戦時中、川崎の工業地帯では同潤会・営団の他に、県や市が公的に供給したものもありますが、そこにも同潤会が協力している。さらに工業資本や電鉄会社、市や県が共同出資した民間の住宅供給ディベロッパーを設立してそこにも同潤会から人が送られています。日本の近代建築史では、同潤会は近代的ハウジングのパイオニアとしてややロマンティックに位置づけられがちですが、むしろ最初からスラム改善も含めた社会政策の専門機関だったということを忘れてはいけないですね。しかもその裾野はいまお話したように予想外に広いようなのです。

八束──戦中の同潤会から住宅営団にかけてはかなり海外事例調査もやっていて、資料も沢山持っていたはずですね。ソ連とかナチスの国土計画も調べている。西山夘三なんかもそれに加わっていたしあの辺は結構凄い調査ですよ。西山財団が復刻を出していると記憶しています。 今京浜工業地帯の話がありましたが、戦後になるとそっちはある程度埋まってしまったので、京葉工業地帯の問題が出てきます。先ほど出た産業計画会議の東京湾埋め立てを提言したのは、前川国男に晴海のアパートを発注した住宅公団初代総裁の加納久朗です。加納は元々千葉の辺の殿様の家系で、何しろ房総の山を原爆で崩してその土で埋め立てすると言う凄い話もしていますが、最後に京葉工業地帯の開発推進派として千葉県知事になりました。すぐに亡くなってしまうんですけど。先ほども言いましたが、丹下研の「東京計画1960」は加納の存在なしには出てこなかった計画です。同潤会から住宅営団、公団と繋がっていくわけですね。ここでも戦前と戦後は捩れながら反復構造になっている。

青井──そうした体制が1930年代にいきなりできるはずがないので、1920年代に前史があるはずです。たとえば関東大震災の復興事業は、都市計画や土木の技術者が集めた国家プロジェクトとして強力なトップダウンで成し遂げられていきます。それが終わると、育った技術者が地方や植民地にばらまかれる。都市計画史の友人から教わったことですが、1933年頃を境に、日本の都市計画がオーダーメイドからレディメイドに変わる。1919年に都市計画法が施行された時点では6大都市しか都市計画区域がなく、その後、数十まで増やしますが、基本的には個別ケースの特殊解を試行錯誤する段階が続きます。それが1933年頃に急増する。要するに、それまでに相当数の技術者が育てられ、また用途地域の決め方や区画整理などのノウハウの蓄積があり、標準解ができ上がっているので、各地方が主体とはなるがメニューは中央官僚が用意し、それに沿って国が金をつけたり指導したりする体制になる。体制ができたからどの都市でも手を挙げれば都市計画が施行できるようになった。そういう意味でレディメイド型になっていく、ということですね。

八束──内務省主導だからこそ可能なことですね。各県知事も内務省から送り込まれていきますし。あれもフランスの地方行政と同じ構造だなぁ。直接影響関係があるのか良く知りませんが。

青井──内務省ということでいえば、神社に関しても1910─20年代には明治神宮をはじめとした大型プロジェクトが複数あり、その技術者たちが1930年代以降、地方や植民地へ散る。だから戦時期に帝国規模の神社量産体制が機能したわけです。もちろんこの時期の神社は、産業経済的な国土再編の推進を補完する社会統合の装置と考えられました。日本の建設量は1937年をピークに激減することが知られていますが、神社は1943年頃まで量産時代です。

八束──神社はシンボルとして非常に目に見えやすいですし、比較的お金が掛からないというのもあったんでしょう。

青井──そうかもしれませんね。ちなみに、明治神宮で育った技術者は、建築だけではなく、林学や造園学分野も多い。内苑は林学系で森、外苑は造園系で公園。彼らが防空緑地計画とか公園緑地系統とかで活躍しただろうと思います。こういうことはまだ研究が十分に進んでいない状態ですね。いずれにせよ、戦時中にどういった社会再編が行われたか。戦後その体制が開発主義的な福祉国家体制へとどう続いていくのか、そういうことを整理していく必要があります。


201603

特集 建築史の中の戦争


千鳥ヶ淵から考える慰霊の空間
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