上海万博

今村創平(建築家)
その名を聞くだけで、心ときめき、強い憧れの念が湧きおこり、何やら怪しげな魅力を覚える、そうした都市がある。パリであるとか、ヴェニスであるとか。
上海もそうした都市のひとつである、もしくはそうであった。そして、一時期は世界で最も魅惑的な都市であったかも知れない。日本では、上海を舞台とする『魔都』と題される小説が書かれ、それがこの都市の冠称として流通した。
上海の都市としての歴史は、他の著名な都市に比してそれほど長くない。アヘン戦争に敗れた中国は上海を含む5港を開港することを余儀なくされ、1845年に上海にイギリス租界が設置された。引き続き、アメリカ、フランスも租界を設け、そこに住む外国人は、本国のライフスタイルをそのまま持ち込んだ。上海は、貿易、工業の中心として栄え、1930年には人口300万人を超え、当時ロンドン、ニューヨーク、東京、ベルリン、パリについで世界第6位の大都市となった。共同租界の人口密度にいたっては、ロンドンよりなお高く世界一であったという。
上海は、同時に文化的にも世界から注目を浴び、無数のアヘン窟や娼妓の存在により、妖しい魅力を伴った都市として認知される。谷崎潤一郎や金子光晴など多くの日本の文学者が上海の地を訪れたのをはじめ、当時の世界的ツーリズムの潮流も加勢した。上海には、先端的な都市文化が花開いていたが、同時に日本をはじめとする諸外国からすればオリエンタリズムといえる後進国中国への蔑視があったことも事実である。いずれにせよ結果西洋文明と中華文明が交差した、世界に二つとない都市が誕生した。
1930年代の上海は、今の言葉でいうグローバル・シティの先駆けであった。60近くの国籍の人々が住み、しかしその多くはそこを仮の住まいだと見なし、常に人々と物資は移動し続けた。上海という単独で栄えた都市があったわけではなく、日本やイギリスとの深い関係があって成立していた都市であったことも、グルーバル・シティの要件を満たす。
その後、1937年の日中戦争開始から1949年の中華人民共和国の成立を経て、上海は世界の視野からその姿を消す。再び存在感を増し始めるのは1984年に開放都市として指定されてからであり、昨今の急激な発展と繁栄はよく知られるところであろう(日本においては、かつて圧倒的な影響関係にあった中国に対する関心が、戦後交流の途絶および中国の停滞により1時期大幅に減った。そして近年になって再び大国として邁進を続ける隣国を、これまで通り蔑視しつつも、すでに競争相手ではないという諦めの気持ちを抱き、一方では隣国に対して失ってしまった教養を、もう一度取り戻そうという動きも生れている)。
その上海で、今年万国博覧会が開催された。たびたび指摘されることだが、日本では1964年にオリンピックが、1970年に万国博覧会が開催されたが、それをなぞるかのように中国では2008年にオリンピックが、2010年に万国博覧会が開催された。共に、世界からの孤立を味わった後、世界のヒノキ舞台に打って出る証として、これらの国際的イヴェントが利用された。このところの万博には珍しく、上海万博は明確に国威発揚の機会と位置付けられている。
万国博覧会が今日意味のある催しかどうかという議論は、2005年に日本で開催された愛知万博の機会などここしばらくなにかと話題となり、結論としてはまず意味がないという方に傾いていると思われるが、ここでは紙幅が限られているので、万博論には深入りせずに都市および建築に関してに話題を絞ろう(すでにここまでの前振りに多くの字数を使ってしまった)。 今回の上海万博では「ベター・シティ、ベター・ライフ」がテーマとして掲げられている。このところの万博は、愛知万博でも顕著であったように、環境が主なテーマとされ、それはこの後に続くソウルでの万博でも同様であるが、今回は、都市をテーマとしていることは注目に値する。それは21世紀になって、上海ひいては中国における都市改造のみならず都市環境というものが、世界でも共通の重要な今日的課題であることを反映している。とはいうものの、この万博を通じて様々な文明に触れた現地の中国人はより良い生活に対する関心を深めるかもしれないが、上海万博の計画の中で新しい都市的提案があったとは認めがたい。
何かと比較される1970年の大阪万博では「人類の進歩と調和」というテーマが明らかに未来を志向していた。マスタープランは、基本案を西山卯三が手掛け、実施案を丹下健三が手掛けた。西山と丹下は都市計画に関する論争を繰り広げておりそれぞれのヴィジョンには明らかな相違があったし、実施案は丹下の「東京計画1960」や「スコピエ都心部再建計画」などでの提案が意識されていた。つまり、大阪万博でのマスタープランは、多分に実際その時期に試みられていたありうるべき都市の姿が反映されたものであった。
一方、今回の万博のマスタープランでは、広大な敷地を陣取り合戦よろしく、単純に割り振ったようにしか見えない。マスタープランによって今後の都市の姿を描くことは放棄されたとみていいだろう。都市に関する展示に関しては、それぞれ強弱があったかもしれないが、基本的には各都市の紹介(宣伝)にとどまり、総体的には特に新しいヴィジョンは示せていないようである。
おそらく、上海万博は当初国威発揚の場として期待されていたが、開催以前にすでに実際の上海の都市そのものにより充分な国際的プレゼンスを示すことに成功してしまい、よって万博を内容で成功させる動機が薄れてしまったのではないか。どう見ても、万博敷地内の光景よりも、実際の上海市街地の方が、迫力がある。これは大阪の時とは全く異なる状況だ。であるから開催するという事実のみが重要となり、マスタープランがどうこうなどといっても仕方がなくなったとも思える。
では、都市の提案から離れて、個別の建物の評価はどうであろうか。まず取り上げるべきは日本館であろうが、紫色のナマコのような外観があまりにもしょぼくて、評判はきわめて悪い。建築先進国であり数多くのすぐれた建築家を有する国が、なぜかくも無様な建物を晒してしまうのか。国内でも、公共建築が建築家の手に委ねられないいびつなシステムが構築されてしまっているのと、同じ構造がここにも見え隠れし、暗然たる思いがする。スキャンダラスなのは、デザインの質の悪さのみならず、その形態がピーター・クック設計のクンストハウスに酷似していることだ。日本館のこの特異な形態は、一応「生命体のように呼吸する環境にやさしい建築」ゆえと説明されているが、それでこの形が生れたとはだれも承服しないであろう(「トポロジーにおける6次元トーラス」という形態の説明は全く意味不明)。一般の商業施設であれば、多少真似をしようともご愛嬌ですむであろうが、国を代表する施設が全く文脈を欠いたコピーをしてしまうのはさすがにまずい。たまたま、最初のスケッチが偶然クンストハルに似ていたということはありうるが、その後多くの建築関係者が関わる中で、誰ひとり類似に気付かなかったということは考えにくい。そうやって推測をすると、どうしてこのようなことが起こりえたのかが不思議ですらある。模倣天国の中国だから、洒落でやりましたと言うほどの度胸やユーモアがあればまた楽しめるのであるが、どうもずるずるとこうなりましたという感じが、あまりにも日本的でやりきれない。
実は、開催国による中国館にも剽窃疑惑があった。水平材を井げた状に組んで逆四角錐とした形態が、安藤忠雄によるセビリア博の日本政府館、はたまた磯崎新による空中都市に似ているという指摘だ。しかし、これは磯崎が明言しているように、磯崎の案は重源による東大寺南大門からインスピレーションを得ている。南大門は天竺様と呼ばれ中国風とされているものの、実際には日本オリジナルの形式である可能性が高いとされているが、いずにせよ当時の宋からの影響を受けていたことは間違いない。なので、中国とすれば、日本という小国に過去建築の影響を与えたこともありましたくらいの話であって、何の問題もない。
それ以外のパヴィリオンでは、ヨーロッパ勢のデザインが目を引くだろう。著者の一番のお気に入りはイギリス館である。無数の繊毛のようなものが突き出した造形は、きわめてオリジナリティーが高く、かつセンスも良い。ここしばらくのイギリスデザインの好調を証明しつつ、またこの国らしくひねったユーモアも感じられる。
スペイン館もまた見事だ。ミラーレスの流派による奔放な造形に、現地のマテリアルがまとわりついている。この建物も、ここでしかありえなかった解を引きだしている。デンマーク館、オランダ館、ノルウェー館もそれぞれに良質なデザインを提供している。 万博というイヴェントは、実にいろいろな要素からなるので、簡単に評価を下すのは難しいが、今回の上海万博の総括は、割合想定内のものとしてまとめられるのではないか。中国の思惑をある程度満たし、かといって特筆すべきこともない。中国の歴史のなかには記されるであろうが、外部にはさして印象に残らなかった催しとして。であるから、勢いを増す隣国に対して、所詮この程度がせいぜいなのだろうとの眼差しを向けて安堵するのと同時に、その程度のレヴェルの場であっても存在感を示せなかったわが国の行く末に、憂鬱な気分を覚えざるをえないであろう。


参考文献
- 榎本泰子『上海──多国籍都市の百年』(中公新書、2009)
- 劉建輝『魔都上海──日本知識人の「近代」経験』(ちくま学芸文庫、2000)
-『新建築』『a+u』『日経アーテクチュア』『GADOCUMENT』各誌、上海万博特集号

201010

特集 上海万博と建築


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