ハード・コアな探求者によるパブリックな場の生成

Raoul Bunschoten, Public Spaces-Prototypes , Black Dog Pub Ltd, 2002.

AA files No.11, Architectural Association Publications, 1986.
*写真はラウールの「スピノザの庭」【拡大】

AA Project Review, Architectural Association Publications, 2004.
「スピノザの庭」(1985)、「アペイロンあるいは形態を与えられたカオス」(1988)、「魂のサイクル ある建築的な宇宙論」(1989)といった、ラウール・ブンショーテン★1の初期のプロジェクトのみを知るものにとっては、彼は形而上学的であり、難解な思考をともない、そして美しいオブジェを作る者と理解されているだろう。それらの作品には精神の集中の痕跡があり、世界や宇宙といったものへの認識が込められており、そして人を強くひきつける魅力を携えていた。一方そこに込められた意図を読み解くことは容易ではなかったし、醸し出された彼独自の世界観には容易には近づけない雰囲気が立ち込めていた。しかし、その作品の強度がもたらす神秘性は、こちらの想像力に強く働きかけるものでもあった。
それ故、彼の近著のタイトルに"PUBLIC SPACE"とあるのを見て、違和感を覚える人は少なくはないだろう。ラウールの幾分自己の世界に浸り過ぎるという性向に対して、パブリック・スペースというテーマは、反対のヴェクトルを持った価値観ではないだろうか。
しかし、ラウールの活動の系譜を眺めてみると、90年代初頭に、彼のスタンスにある種の転向とも言える方向転換があったことがわかる。その時期にラウールは、モスクワ、ベルリン、プラハといった、共産主義体制が崩壊し、いまだ新しい社会体制を生み出すに至っていない地域に積極的に関与するようになる。そこでの調査や研究を通して、都市のダイナミックな変動というものが彼の新たなモチーフとして浮上してくる。もちろん、80年代の「アペイロン」が分断されたベルリンを舞台としていたように、それまでにも都市への関心がなかったわけでは決してないのだが、いわばこの変化は、実験室から現場へといった趣を持つものだ。実際彼の知名度の上昇も手伝ったのではあろうが、90年代以降は世界各地に招かれ、学生や地域住民を交えた数多くのワークショップを開催し、都市の読解や関与のツールとしての独創的な手法を発展させていくことになる。
そのように、彼の活動の範囲というものは以前より明らかに広がったが、しかし一方では彼の行なっていることが見えにくくなったことも事実だ。というのも、彼は1990年にモスクワで、"skin of the earth"★2という大掛かりなインスタレーションを行なった後、パタリとオブジェを作るのを止めてしまう★3。その後は、ワークショップなどの活動がメインとなり、しかしラウールのそのやり方というのは、最終的な作品作りを目的とするものではなく、その場所におけるなんらかの探求のプロセスそのものを追求する傾向にあり、よって直接関与した者以外にはその内容は理解がしにくいものである。
そうした中で、この"PUBLIC SPACE"という本は、ラウールが行なってきた都市に関わるプロジェクトや公共建築のコンペ案など9点を集めた興味深いものとなっている。ここでは、80年代のプロジェクトのような、純粋にコンセプチュアルな提案もある一方、「カーディフ・オペラハウス」や「プラド美術館の増築」など建築のプロジェクトもあり、なかなか実体の現われにくい、ラウールの都市やそこで集まる人々とのかかわりへの具体的な試みを見ることができるであろう。最初の方のページに、9つのプロジェクトそれぞれの、配置(configulation)と関係(relation)を示す、早書きのスケッチがあり、そこにまず彼の関心があることが見て取れる。
"AA files"は、AAスクールの機関紙として知っている方も多いだろう★4。このところは以前より発行回数が減り年に2回となってはいるものの、70年代、80年代のAAスクール躍進の立役者であった当時の校長アルビン・ボヤスキーが創刊したこの冊子は、評論、建築作品の紹介、AAスクールの活動を伝える刺激的かつ貴重な存在であり続けている。今回は、その"AA files"の中でラウールに関するものを挙げておこう★5。
・No. 10: "Wor(l)d of Daniel Libeskind/ 'Theatrum Mundi', 'Three lessons in Architecture'"(ダニエル・リベスキンドの「世界劇場」、「建築の3つのレッスン」へのクリティック)
・No. 11: "Spinoza's Garden"(ラウールの実質的デビュー作「スピノザの庭」の紹介)
・No. 13: "oTOTEMan, or 'he is my relative / 'Victims', The Collapse of Time'"(ジョン・ヘイダックの「犠牲者たち」、「時の崩壊」へのクリティック)
・No.21 および No.23: "The Skin of the Earth"(「地球の皮膚」の紹介および、それへのクリティック)
AAスクールは実験的な校風で知られているが、現在どのようなテーマでの探求が行なわれているかをうかがい知ることは難しい。実験的であるという校風からも、またそれにともなう人の出入りの激しさからも、常に行なわれている活動は変化し続けている(よって、すばらしく成果を上げている時期があるかと思えば、まったく停滞している時期もあるという、非常にリスキーな場なのである)。であるから、例えば少し前にAAスクールにいたという人に聞いたとしても、今年のAAスクールがどうなのかを知ることはほとんど無理である。"Architectural Association Project Review"は、そうした状況にあって、AAスクールの現在を知ることを可能にする希少な冊子だ。これは、一年の終わりに、各ユニットの活動や生徒の作品をまとめて出版される、極めてリアルタイムでホットなものである。年度末というクレージーなまでに忙しく混乱を極めたさなかにまとめられることもあって、決してわかりやすく編集されているわけではないし、そもそも一年の間に大量のプレゼンテーションが作られ活発な議論が行き交う中で、ここに再現されたものはそれらのごくごく一部にしか過ぎないとは言えるが、それでもここに掲載されたドローイングや写真が、新しい建築の可能性を模索していることを直裁に伝える刺激に満ちたものであることに、疑いを持つ人はいないであろう。確かに、ここに載せられた情報は断片的であり、ここからAAスクールの現状を言い当てたりそれを論評することには無理があるが、それでも今年のものを手にとって見ると、フォールディングや生成のシステムといったいわば流行ともいえるテーマを扱っているユニットが増えていることは明らかなようだ。しかし、AAスクールのユニークなところは、そうした強い傾向がある一方で、マイペースとも思えるような、まったくわが道を行く個性的な活動をしているユニットがいくつもあることだ。最新の理論の追求もありながら、一方でそうしたものに染まらずに、独自の道を切り開く運動。AAスクールにはそうしたしたたかさがある。
★1──ラウール・ブンショーテンについては、この連載の初回「知られざるしかし重要な建築家」でも紹介しているので、そちらもご覧いただきたい。そこで取り上げた"Urban Flotsam"では、ラウールの90年代の活動が詳細に記録されているし、彼の考えを伝えるmanifesuto(宣言)のテキストも多数収録されている。 ラウール・ブンショーテンは、1955年オランダ生まれ。スイスのETH、ミシガンのクランブルック芸術アカデミー、ニューヨークのクーパー・ユニオンで建築を学ぶ。83年より、ほぼ10年に渡ってAAスクールでユニットマスターを務め(以降も断続的にAAスクールに参加)、その他オランダのベルラーヘ・インスティチュートなどでも指導にあたる。ロンドン在住。広く世界中で国際的ワークショップや、講演活動を行なう。 ラウール・ブンショーテンに関しては、『a+u』92年8月号において、特集が組まれている。また、同じく92年に、デンマークの建築雑誌"B"および、オランダの"FORUM"がそれぞれ、モノグラフを出版している(しかしながらこれらの特集では、ラウールのオブジェ時代のものを取り上げているので、90年代以降のラウールの活動については上述の"Urban Flotsam"を見てもらうしかない。残念ながら、この時期のものを紹介する日本語のメディアはこれまでにない)。
★2──「地球の皮膚」というのは、この特定のプロジェクトのタイトルであると同時に、彼の長年の探求のモチーフそのものでもある。★1に記した『a+u』の特集にて、論考「地球の皮膚」を含むいくつかのラウール自身のテキストが収められており、それらはこの建築家(?)の思考の魅力をよく伝えているので、是非一読されたい。
★3──オブジェというか、各プロジェクトごとにモデルを作ることまでを止めたわけではないが、オブジェそのものを作品として問うという姿勢からは身を引いたといえるのであろう。変わりに、多くのコラージュ的とも言えるドローイングを作成している。それらが、また判読困難ながらも、ヴィジュアル的に、また思考を刺激するものとして魅力的である。
ついでながら、ラウールの師であるダニエル・リベスキンド(ラウールはリベスキンドのもっとも優秀な学生の一人であり、リベスキンドの推薦により、学生終了後すぐにAAスクールで教えることとなる)が、ベルリン・ユダヤ博物館のコンペに勝つのは1989年であり、リベスキンドもまた彼の初期の作風を印象付けるドローイングやオブジェの作成を90年代前半以降はほとんど止めてしまう。このラウールとリベスキンドの転向のシンクロは、同じ時代に生きた証であるとも言えるし、ラウールがかつての師の動向に極めて意識的であったのではというのは、私の勘繰りである。
★4──厳密に言うと、"AA files"の編集部はAAスクールの内部にあるのではなく、別の独立した組織である。といっても、お互いに密接な関係にあることに変わりはないが。そもそも、AAスクールのことを略してAAと呼ぶことは一般的ではあるが、AAスクールの正式名称は、Architectural Association School of Architecure であり、つまり英国建築家協会建築学校というものである。つまりAAという呼称そのものは英国建築家協会を意味するのである。AAスクールのウェブサイトはこちらでありhttp://www.aaschool.ac.uk/、その中に"AA files"をはじめとするAAの出版物を見ることができる。また、project review のページや各ユニットのページがあり、AAの学生の作品を多数見ることができる。
★5──といっても、「AA files のバックナンバーなど入手できないよ」との声も聞こえてきそうである。しかし、いずれも大変興味深いものなので、あえて挙げることにした。建築学科を持つ大学の図書館、建築学会の図書館には(恐らくきっと)あるでしょう。また、ラウールの雑誌への寄稿で重要なものとして、ドイツの建築理論誌"Diadalos"に1985年に掲載された"Collage City. A Maquerade of Fragmented Utopia"がある。この長文のテキストは、この連載の前回に紹介したコーリン・ロウの「コラージュ・シティ」のすぐれた書評であると同時に、ラウールの当時の都市への関心や、80年代の彼のAAスクールでの実験の様をうかがい知ることができる興味深いものである。
[いまむら そうへい・建築家]