建築家の人生と心理学
Franz Schulze, Philip Johnson, The University of Chicago Press, 1996.
Oscar Niemeyer, The Curves of Time: The Memoirs Of Oscar Niemeyer, Phaidon, 2007.
Sylvia Lavin, Form Follows Libido, The MIT Press, 2007.
──言うまでもないことであるが、こうした氏が身に着けておられるものは、──それを"きれい寂び"と言うなら、"きれい寂び"は氏が生まれながらに持って来られたものではなく、御自身で造られたものである。これまでの歳月に、いつとはなしに、ごく自然に御自身で身に着けられたものである。もし村野藤吾論を書くとすれば、一番重要な本質的な問題は、こうしたところにカメラを据えなければならないだろう★1。
建築を紹介するメディア、そのなかで建築家の作品集に絞ったとしても、その数はあまたある。しかし、建築家の全業績をまとめたもの、またその建築家の生涯の軌跡を追ったものは、案外少ない。
──重要な歴史的運動や現象、建築家などについては行き届いたモノグラフが上梓されるのが当たり前である欧米とは違って、日本においてはきちんとした記述を備えたモノグラフと呼ぶにふさわしい本が出されることは少ない。作品集にしても、年・月を経てなお入手可能なものは極く稀である。大体、日本の近代建築の本格的な通史すら、現代に至るものは日本語では書かれていない(英語ならデヴィッド・スチュアートの労作がある)、というありさまである。そのようなわけで日本の建築文化を途方もない健忘症が覆っている。それは間違いなく、建築文化を累積的な次元を欠いた表層的なものとしている★2。
八束はじめさんがこう書いてからすでに10年が過ぎたが、そのあいだに状況は改善されたのだろうか。確かに、新建築社が、丹下健三、林雅子、清家清のモノグラフを出版したことは特筆に価するし、TOTO出版が、カルロ・スカルパ、ルイス・カーン、グンナー・アスプルンドといった建築家の作品集を出していることも、大きな恩恵をもたらしている。とは言うものの、全般的にはメディアは旬の建築家の紹介に熱心であるし、過去の建築家を扱う手際にも、商業的思惑ばかりが透けて見えると断ずるのは、失礼なことであろうか。
とりあえず、ある程度は建築のすぐれた作品集があることを認めたうえでも、海外にあって日本にはほとんど存在しないものは、評伝、自伝の類である。そもそも、外国のちょっとしたサイズの本屋に行けば、著名人の伝記の本棚が必ずあるのに対し、日本ではそうしたことはないから、これは建築に限った話ではないとは言える。
建築家の作品集においても、作品論が語られることがあっても、建築家自身の人となりに関する記述はそれほど多くない。丹下健三のモノグラフにしても、この建築家がどのようなパーソナリティの持ち主であったかはほとんど記されていない。作品と人物は別だという考え方もあるだろう。人物に関するものは、どうしても興味本位のものに傾きがちだから、そうしたものは排そうという真面目な意図があるのかもしれない。しかし、欧米では、伝記の類が多く出版されまた多くの読者がいるということから考えると、どうも近代的自我がどのように形成されてきたかという歴史の違いにも思えてくる。ルネサンスにおいて建築家が生まれたというのは、職能としてのみならず、その時代には人間中心主義が唱えられた。つまり、欧米においては建築家とは人格を備えた存在であるが、日本ではそうではない、とまで書くとこれはさすがにこじつけである。
ただ、その仕事(作品)に見合うだけの、人格とは言わないまでも、人間的な魅力がなければ、その人物の評伝というのは、読者を獲得しうるものとはならないであろう。80年代に、白井晟一、村野藤吾、前川國男といった面々が相次いで亡くなった際に、巨匠の時代の終わりと言われもしたが、それは彼らのような建築をつくる時代が終わったということのみならず、彼らのようなスケールの人間がもういなくなったことを意味している。それは、建築家だけではなく、政治家においても、企業家においても同様のことが報告されているから、日本社会全体の問題ではあるのだが。
20世紀における巨匠建築家というとすぐさま何人かの、名前が挙げられるであろうが、建築界のゴットファーザーといえば、フィリップ・ジョンソンであろう。ほぼ100年にわたる人生は、ちょうど20世紀をカバーし、インターナショナル・スタイルやポストモダンといったいくつかの重要な建築のムーブメントの中心にいた。その彼の伝記『Philip Johnson』をまとめたのは、ミース・ファン・デル・ローエの定本ともいえる伝記をかつて上梓したフランツ・シュルツである。シュルツという人は、例えば八束さんがミース論の中で、「伝記としては、本文でも何度となく言及されているシュルツの決定的な著作が、すぐれた翻訳で出ているので、(...中略...)いささか不遜な言い方かもしれないが、少なくともシュルツは読んでいるくらいの知識は前提にして書いている」★3としているように、自論を披露することを好むことがない、正式な記録の書き手として期待していいと思われる。であるから、この本はジョンソンの厚みのある生涯を詳細に記録している貴重なものだ。ただ一方では、ジョンソンにはスキャンダラスなエピソードが多いにもかかわらず、シュルツの記述は淡々としたものであり、ジョンソンの生の声を期待するには少し物足りなさが残るかもしれない★4。もっとインタヴュー集のような体裁とすることも可能であったであろうが、そうすると面白いものの軽い読み物になってしまうので、正式な記録の出版をジョンソン自身が望んだのかもしれない★5。
いずれにせよ、伝記を読む楽しみとは、主人公の人生を自身に照らし合わせて、自らを鼓舞したりまたは反省したりするところにもあるのだが、ジョンソンのものはあまりにもスケールが違いすぎて、嫉妬を覚える気すら起きえない。
一方で、同じく100歳近い長寿の建築家オスカー・ニーマイヤーによる自叙伝『The Curves of Time: the memories of Oscar Niemeyer』は、ジョンソンのものとはうって変わって、本人の肉声による極めてパーソナルなものとなっている。建築にまつわる話は思いのほか少なく、家族をはじめとする友人たちと過ごした時間に関する話が多い。伝記にもいろいろなスタイルがあってしかるべきで、この本はニーマイヤーという人物を身近に感じるには、ふさわしいものとなっている。初版は2000年であるが、昨年ニーマイヤーの100歳を記念したエディションが新たに発行された。
ジョンソンの伝記において、彼の20代からの精神家医との関わりが出てくるが、われわれ日本人には馴染みが薄いが、アメリカにおいては精神分析とはきわめて日常的なものである。シルビア・レイヴァンによる『Form Follows Libido』は、サブタイトルにもあるように、リチャード・ノイトラの建築と精神分析との関連を研究したものだ。ノイトラの文献件的研究は、かの地では厚みがあるようであり、この本も住宅を中心としたノイトラの作品をかなり本格的に扱っている。どうも、アメリカ西海岸の建築というと、ケーススタディ・ハウスにしても、フランク・ゲーリーの建築にしても、明るい日差しのもと屈託がなく、ディズニーとハリウッドと同じ土壌の、悪く言えば能天気なものという印象が強い。そういう先入観があるなかでの、このレイヴァンの仕事は、建築作品を心理学的に読みこむというスリルを存分に味わわせてくれるだろう★6。
★1──井上靖「きれい寂び──『村野藤吾氏の茶室』序」(井上靖『きれい寂び』、集英社、1980、所収)
★2──八束はじめ+吉松秀樹『メタボリズム:1960年代──日本の建築アヴァンギャルド』(INAX出版、1997)。八束氏による序より
★3──八束はじめ『ミースという神話──ユニヴァーサル・スペースの起源』(彰国社、2001)。あとがきより
★4──この伝記が出版されたのは、ジョンソンの生前であり、また過去のさまざまな出来事が詳細に綴られていることからも、ジョンソンの積極的な協力があったことは明らかなのだが、あまりジョンソン自身の言葉というものが引用されてはおらず、客観的なものとして抑え気味になっている印象を受ける。
★5──フィリップ・ジョンソンの追悼文として日本語で読めるものとしては、磯崎新の「われアルカディアにありき」(『新建築』2005年4月号所収)が、さすがに読ませる。また、『a+u』2005年5月号は、ピーター・アイゼンマン、ケネス・フランプトン、マイケル・グレイブス、フィリス・ランバード、テレンス・ライリーによる追悼文が集められているが、とりわけアイゼンマンによるものが面白い。
★6──レイヴァンは、この本のもととなる論考をいくつかの雑誌に発表しており、そのひとつが『a+u』2001年8月号所収の、「パンドラの箱を開く──リチャード・ノイトラと家庭環境の心理学」である。
[いまむら そうへい・建築家]