西洋建築史になぜ惹かれるのか
Joseph Rykwert, The Dancing Column: On Order in Architecture, Mit Pr, 1996.
コーリン・ロウ『イタリア十六世紀の建築』(六耀社、2006)
Claude-nicolas Ledoux, Birkhauser (Architectural), 2006.
Michael Mansbridge and John Nash,John Newenham, Sir Summerson, John Nash: A Complete Catalogue, Phaidon Inc Ltd, 2004.
Bernd (FWD) Evers, Architectural Theory - from the Renaissance to the present, Taschen America Llc, 2006.
ヴィトルト・リプチンスキ『完璧な家』(渡辺真弓 訳、白水社、2005)
日々のわれわれの生活に密着するものとして、身の回りにある文化──例えば毎日の食事や流行歌や服装など──は、毎日の暮らしとともにあって、平凡な日常に彩を与えたり、時として大きな昂揚感を与えてくれたりもする。生活とは少し離れていても、同時代の作家によるアートなどもまた、今ここにいる自分との関係を強く意識させるものである。そうした現在形の文化に比べると、古典文学や今回話題にする西洋建築史などとは、われわれはどのように関係を取り結んだらいいのだろうか。
もちろん、そうした〈遠い文化〉のなかに美や意味を見出すことは、それほど難しいことではない。また、歴史から学ぶということも、よく行なわれることだ。しかし一方では、現在のわれわれとは、どこかできっぱりと断絶しているということも認めていいのではないだろうか。われわれがそうした〈遠い文化〉に接して、それを理解しようとつとめたり、その滋養を味わったりするという行為において、すでにある一定の関係が生じているのは疑い得ないが、それでも共有できるのはある表面的な部分であって、基本的なところでは無関係であることを前提としてつき合う必要があるのではないだろうか。
しかし、そうした認識に立つことによって、古典や異文化に対して変にウエットな感情を持つことなく、われわれの現代から無関係なところで、そうした〈遠い文化〉の崇高さに浸ることが可能なのかもしれない。
どの国の文化であっても、過去の遺産は継承されるものだが、西洋建築史ではその構造は堅牢であり、また時として本質でもあるので、個別の建築を見るだけでは、そのよって立つ意味を把握することができない。それが西洋建築史への取り付きにくさを生み出すとともに、一旦虜ともなれば、ずぶずぶと底なし沼のような果てしない世界へと引きずり込まれることとなる。
建築史に限らず、重層した知識の織り成す世界というのは、西洋文化の特徴ともいえるが、西洋建築史では、学識の豊かさということが肝要となる。様式で整理すればある程度簡便に理解できるように思われるかもしれないが、その本質を見定めようとすれば、知識の森の中に分け入るしか方法はない。
現在の建築史家で、そうした学識の深さを最も体現しているといえるのは、ジョセフ・リクワートその人といっていいだろう。多数の言語を自在に操るとの伝説のあるリクワートは、まさに縦横無尽にさまざまな事例を差し出し、そのエピソードを紹介し、ひとつのモチーフのもとに壮大なストーリーをまとめ上げる。西洋建築史の豊饒な沃野を進む醍醐味を存分に味わらせてくれる書き手である。そうした彼の多くの著作のうち、大部で充実した内容を誇るのが『Dancing Column』である。正直言って、私にもこの本を英語で読むのは難儀であり、ぱらぱらめくるたびに読みきるのは不可能と絶望的な気分に襲われる。しかし、その膨大な知識に触れられることがまず楽しみだというのは、単なる開き直りであろうか★1。
実際、西洋建築に関する書籍はこれまでにも多数翻訳されており、ただでさえなじみの薄い対象を扱っているから、専門的に取り組もうという人以外は、日本語訳を読むことでその目的は十分果たされるし、よっぽど効率的といえる。リクワートの本では『アダムの家』が、氏の弟子にあたる黒石いずみの手によって翻訳されている★2。
今回は、以下思いつくまま、目に留まった西洋建築に関する好著を、洋書、翻訳書取り混ぜながら紹介する。
コーリン・ロウ&レオン・ザトコウスキによる『イタリア一六世紀の建築』は、コーリン・ロウによる最後の著作。生前から準備し、その完成を見ずにロウは亡くなった。日本でのコーリン・ロウの受容は、まずはモダニズム建築に関わること、次いでコラージュ・シティに代表される都市に関するもの。それらをもってロウを評価してきたわけだが、最後に彼が準備していたのは、16世紀のイタリア建築というハードコアな西洋建築史の本であった。イギリスでは、一緒に机を並べて講義を聴いていたというリクワートとロウの著作を、並行して読み進めるのも一興であろう。
最近、現代建築に関する2冊目の著作『ゆがんだ空間』が翻訳され話題となったアンソニー・ヴィドラーであるが、彼の初期のクロード=リコラ・ルドゥーに関する著作の英語版『Claude-Nicolas Ledoux』が、昨年発行された。近現代の建築のいくぶん奇矯な側面を強調し、心理学などと関連つけて語るのが彼の手法であるが、ヴィドラーの原点は、ルドーをはじめとするヴィジョナリー・アーキテクチュアにある。
マイケル・マンスブリッジによる『John Nash』は、著者が長年に渡ってナッシュの現存する建物を訪ね歩き、建築家の200を超えるプロジェクトをまとめ上げたもの。序文は、ナッシュのモノグラフを書いているジョン・サマーソンによる。都市計画がほとんど実現しなかったロンドンにおいて、モールやリージェント・ストリートなど、ナッシュは新古典主義でまとめ上げた都市景観をいくつか実現した。そうした都市におけるピクチャレスクな景観を生み出した建築家として記憶されるナッシュは、古典への傾倒だけではなく、19世紀初頭という変革期の時代の生きたリアリストでもあった。キッチュなデザインで知られるロイヤル・パヴィリオンが鋳鉄製の細い柱を採用していることはすぐに眼に留まるが、新古典主義をまとったファサードの列柱も、石積みではなく実は鋳鉄でできていることは、見ただけではまったく気付かないだろう。
『Architectural Theory - from the Renaissance to the present』は、タイトルにもあるとおり、ルネサンスから現在に至る、建築理論の書を建築家/建築理論家別に網羅した本。ロバート・ヴェンチューリやレム・コールハースといった現代建築家まで含まれているが、基本はルネサンス以降の西洋建築史の本といって差し支えない。89人の建築家/建築理論家が取り上げられ、850を超える図版が鮮明に転載されている。眺めているだけでも西洋建築の世界に浸れるであろうし、各建築家/建築理論家についてのコンパクトな解説が添えられているので、事典代わりとしても重宝できる。なにしろタッシェン社なので、コストパフォーマンスが高いのが嬉しい。
ヴィトルト・リプチンスキは、ねじの歴史を追いかけた読み物『ねじとねじ回し』といった著作が一般的にも広く受け入れられたように、柔軟な視点を持つ歴史家のようだ。『完璧な家──パラーディオのヴィラをめぐる旅』では、パラーディオが多くのパトロンに恵まれたのは、美しさのみならず、その家が快適で性能においても優れていたからであるということから、パラーディオのヴィラを巡る旅をはじめている。美学的にも古典とされている建築を追体験できるこの本は、彼方にあると思いがちな歴史建築を、身近なものへと引き寄せてくれる。
★1──『Dancing Column』および、リクワートに関しては、磯崎新の著書『人体の影(アントロポモフィスム)』(鹿島出版社、2000)の前書きに詳しい。また、五十嵐太郎が『建築文化』1999年5月号に、リクワート論「起源への問いを通して近代を思考する歴史家」を寄稿している。
★2──この『アダムの家』の序文「近代建築の初源」もまた、磯崎新によるものである。
[いまむら そうへい・建築家]